今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿がベッドルームにやって来た。安寿はにこにこと微笑んで後ろ手に何かを持っている。安寿は航志朗の前に立つと平らな包みを差し出して言った。
「航志朗さん。これ、よかったら受け取ってください。私からのお誕生日プレゼントです」
「あ、ありがとう、安寿」
驚きつつも航志朗は包みを開けた。中から小さなキャンバスが出てきた。青い何かが描かれている。
「空?」
安寿は恥ずかしそうにうなずいた。
「ええ。私、ときどき航志朗さんの後ろに大きな青空が見えるような気がするんです。その空を描いてみました」
「そうか……」
航志朗は安寿の絵に目を落とした。
安寿の小さな青空の絵はとてつもない広がりを感じさせる。とても力強く美しい絵だ。それを見た航志朗は大きな不安におちいった。
(俺は知っている。安寿は目に見えない大きな白い翼を持っている。いつかその翼を広げて俺の前からどこか遠くに飛び立ってしまうかもしれない)
思わず航志朗は安寿の手を強く握りしめた。
(俺はこの手を離さない。絶対に!)
そして、航志朗は安寿をきつく抱きしめた。
「航志朗さん……」
思いがけない航志朗の反応に安寿は心配になった。
(やっぱりとても疲れているんだ。きっとかなり無理をして帰って来てくれたのかもしれない)
「安寿、さっきは君に無理をさせてしまってすまなかった。不快な思いをしたんじゃないのか。本当にごめん」
急に安寿は顔を赤らめながら首を振った。
「いいえ。さっきはとても……」
「とても?」
「気持ちよかったです」
あまりにも素直な安寿の言葉に今度は航志朗の方が顔を赤くした。
「そうか、安寿。じゃあ今からまた……」
航志朗は安寿のパジャマのボタンに指をかけた。
あわてて安寿は航志朗の手を強く握って大きな声を出した。
「今日はもうだめです。航志朗さんはとても疲れています。ゆっくり休みましょう!」
安寿は全体重をかけて航志朗をベッドに押し倒した。そして、航志朗の顔を自分の胸に押しつけて抱きしめた。航志朗の髪をなでながら安寿は優しい声でささやいた。
「航志朗さん、目を閉じてください。一緒に眠りましょう」
はじめ航志朗は胸の内で思った。
(まいったな。こんな状態じゃ眠れないって)
だが、安寿の匂いと温もりは航志朗に安心感を与え始めた。それに優しく髪をなでられると全身の力が抜けてくる。航志朗はうとうとし始めてやがて眠りに落ちた。安寿は身体の力をゆるめてほっと安堵した。
安寿は自分の腕の中の航志朗の寝顔を見つめた。あふれ出してくる航志朗への愛おしさで胸が張り裂けそうになる。昨年の夏に、座布団の上に斜めに寝かされた敬仁の姿を描いたことを思い出した。あの絵はスケッチブックごと恵と渡辺に贈った。心から安寿は思った。
(私、彼の寝顔を描きたい……)
だが、すぐにその想いを安寿は打ち消した。
(だめだめ! 彼の絵を描いてはだめ! あとでつらくなるだけだから)
月明かりが抱き合った安寿と航志朗を照らす。凪いだ、とても静かな時間だ。航志朗の穏やかな呼吸の音しか聞こえない。安寿は心の奥底で思った。
彼は私の腕の中で息づいている。もはやこの世界には私たちしか存在しないと思ってしまう。でも、私はわかっている。これはおとぎ話だ。いつか「おしまい」になる。「めでたし、めでたし」でも「ハッピーエンド」でもない終わりがやってくる。だけど、今だけは、このつかのまの喜びに浸っていたい。このもろくてはかない喜びに。
安寿は航志朗の頬に自分の頬を寄せた。安寿はわかりきっている。このふたりきりの世界から出て行かなければならない時がいずれやって来る。そう遠くない未来に航志朗との夫婦関係は終わる。
(その時が来ても私は大丈夫。もともとずっとひとりぼっちだったんだもの。もとに戻るだけ。でも、彼は今のままではだめ。こんなに働き過ぎていたら、いつか身も心も損なってしまう。私は彼を守らなくちゃ。私の持てる力のすべてで)
瞳を潤ませて安寿は眠った航志朗を見つめた。
(だって私は心から彼を愛しているから。私の一生涯の最初で最後の愛するひとを私は守る)
安寿は航志朗に寄り添って無理やり目を閉じた。
ふたりのそばにある絵のなかの青空は、今、暗闇に包まれている。
その夜もやがて過去に流れていった。
「航志朗さん。これ、よかったら受け取ってください。私からのお誕生日プレゼントです」
「あ、ありがとう、安寿」
驚きつつも航志朗は包みを開けた。中から小さなキャンバスが出てきた。青い何かが描かれている。
「空?」
安寿は恥ずかしそうにうなずいた。
「ええ。私、ときどき航志朗さんの後ろに大きな青空が見えるような気がするんです。その空を描いてみました」
「そうか……」
航志朗は安寿の絵に目を落とした。
安寿の小さな青空の絵はとてつもない広がりを感じさせる。とても力強く美しい絵だ。それを見た航志朗は大きな不安におちいった。
(俺は知っている。安寿は目に見えない大きな白い翼を持っている。いつかその翼を広げて俺の前からどこか遠くに飛び立ってしまうかもしれない)
思わず航志朗は安寿の手を強く握りしめた。
(俺はこの手を離さない。絶対に!)
そして、航志朗は安寿をきつく抱きしめた。
「航志朗さん……」
思いがけない航志朗の反応に安寿は心配になった。
(やっぱりとても疲れているんだ。きっとかなり無理をして帰って来てくれたのかもしれない)
「安寿、さっきは君に無理をさせてしまってすまなかった。不快な思いをしたんじゃないのか。本当にごめん」
急に安寿は顔を赤らめながら首を振った。
「いいえ。さっきはとても……」
「とても?」
「気持ちよかったです」
あまりにも素直な安寿の言葉に今度は航志朗の方が顔を赤くした。
「そうか、安寿。じゃあ今からまた……」
航志朗は安寿のパジャマのボタンに指をかけた。
あわてて安寿は航志朗の手を強く握って大きな声を出した。
「今日はもうだめです。航志朗さんはとても疲れています。ゆっくり休みましょう!」
安寿は全体重をかけて航志朗をベッドに押し倒した。そして、航志朗の顔を自分の胸に押しつけて抱きしめた。航志朗の髪をなでながら安寿は優しい声でささやいた。
「航志朗さん、目を閉じてください。一緒に眠りましょう」
はじめ航志朗は胸の内で思った。
(まいったな。こんな状態じゃ眠れないって)
だが、安寿の匂いと温もりは航志朗に安心感を与え始めた。それに優しく髪をなでられると全身の力が抜けてくる。航志朗はうとうとし始めてやがて眠りに落ちた。安寿は身体の力をゆるめてほっと安堵した。
安寿は自分の腕の中の航志朗の寝顔を見つめた。あふれ出してくる航志朗への愛おしさで胸が張り裂けそうになる。昨年の夏に、座布団の上に斜めに寝かされた敬仁の姿を描いたことを思い出した。あの絵はスケッチブックごと恵と渡辺に贈った。心から安寿は思った。
(私、彼の寝顔を描きたい……)
だが、すぐにその想いを安寿は打ち消した。
(だめだめ! 彼の絵を描いてはだめ! あとでつらくなるだけだから)
月明かりが抱き合った安寿と航志朗を照らす。凪いだ、とても静かな時間だ。航志朗の穏やかな呼吸の音しか聞こえない。安寿は心の奥底で思った。
彼は私の腕の中で息づいている。もはやこの世界には私たちしか存在しないと思ってしまう。でも、私はわかっている。これはおとぎ話だ。いつか「おしまい」になる。「めでたし、めでたし」でも「ハッピーエンド」でもない終わりがやってくる。だけど、今だけは、このつかのまの喜びに浸っていたい。このもろくてはかない喜びに。
安寿は航志朗の頬に自分の頬を寄せた。安寿はわかりきっている。このふたりきりの世界から出て行かなければならない時がいずれやって来る。そう遠くない未来に航志朗との夫婦関係は終わる。
(その時が来ても私は大丈夫。もともとずっとひとりぼっちだったんだもの。もとに戻るだけ。でも、彼は今のままではだめ。こんなに働き過ぎていたら、いつか身も心も損なってしまう。私は彼を守らなくちゃ。私の持てる力のすべてで)
瞳を潤ませて安寿は眠った航志朗を見つめた。
(だって私は心から彼を愛しているから。私の一生涯の最初で最後の愛するひとを私は守る)
安寿は航志朗に寄り添って無理やり目を閉じた。
ふたりのそばにある絵のなかの青空は、今、暗闇に包まれている。
その夜もやがて過去に流れていった。