今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第19章 門外不出の絵
第1節
次の日の午前に再び航志朗はシンガポールに向かって飛び立った。航志朗のブリーフケースには安寿が描いた二枚の絵が入っている。四月の初めにアンとヴァイオレットの赤ちゃんが生まれた。元気な双子の女の子だ。アンとヴァイオレットは小さな二人の娘たちに「ローズ」と「アイリス」と美しい花の名前を名付けた。航志朗はバラとアヤメの小さいサイズの油彩画を親友夫婦に贈りたいと安寿に頼んだ。安寿は母親のヴァイオレットの名前にちなんで、両方とも淡い紫色の花の絵を描いた。シンプルだが日本画のような気品のある絵だ。その絵を見た航志朗は心から喜んだ。
「素晴らしいよ、安寿! 最高の出産祝いだな」
心から嬉しくなって安寿は微笑んだ。何よりも航志朗に喜んでもらえたからだ。
「アンとヴィーにこう言って渡すよ。『俺たちふたりからの贈り物だ』って」
航志朗の手を握って安寿はしっかりとうなずいた。
今朝、玄関を出る前に航志朗はつらそうに告げた。
「安寿、これからソウルと上海の仕事が大詰めを迎えるんだ。七月になるまで帰って来られないかもしれない。本当にごめん」
「そうですか」と静かに答えて安寿はうつむいた。だが、安寿はすぐに顔を上げて航志朗の手を握って言った。
「航志朗さん、お身体にはくれぐれも気をつけてくださいね。絶対に無理はしないで。お願いですから」
安寿は真剣なまなざしで航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。
「わかった。ありがとう、安寿」
ふたりはきつく抱き合った。航志朗はたまらずに安寿に唇を強く押しつけた。息の根が止まってしまいそうなほどの情熱的なキスだ。安寿は航志朗の腕の中であえいだ。目を見開いて思わず航志朗が唇を離すと安寿は航志朗にすがりつき、「航志朗さん、もっと、もっと……」と甘えるように訴えた。いつもと違う受け身ではない安寿の態度に、航志朗は身体じゅうを興奮させてまた唇を重ねた。
航志朗は心の底から叫びたい気持ちになった。
(安寿、君とずっとこうしていたい!)
その時、航志朗のスマートフォンが鳴って、タクシーがマンションのエントランスに到着したことを知らせた。安寿は急に夢から覚めたような顔をして、航志朗からそっと身を離した。そして、安寿は下を向いてつぶやくように言った。
「いってらっしゃい、航志朗さん……」
「安寿、……いってくる」
タクシーに乗り込む航志朗を見送る安寿の瞳は確かに潤んでいた。窓ガラス越しに安寿が何か思いつめた顔をしているような気がして、航志朗は胸騒ぎを覚えた。だが、しごく事務的にタクシーは出発した。安寿を一人残して。
航志朗をタクシーで送り出してから、安寿はマウンテンリュックサックを背負って電車で大学に向かった。すでに安寿は意を決していた。大学の正門の前で安寿は長い黒髪をひとつに結んで、黒川がやって来るのを待った。
黒川が乗ったダークグレーの高級車が目の前に停まった。車の中から黒川がいつものように降りて来た。
(私は、航志朗さんを守る……)
安寿はマウンテンリュックサックの持ち手をきつく握りしめた。
「おはようございます、黒川先生」
そう言うと、安寿は頭を下げた。
黒川は驚きもせずに言った。
「おはよう、安寿さん。わざわざこの僕を出迎えてくれたのかな。この気持ちのよいうららかな春の日に、大雪でも降らなければいいけれどね」
黒川は着物の袖を口元に当てて上品に笑った。黒川の漆黒の瞳はまとわりつくように安寿の顔を凝視した。
安寿は涼しい顔を崩さない。そして、無表情のままで淡々と言った。
「黒川先生。お尋ねしたいことがあるのですが」
「ふーん。そのご様子だと、僕の講義内容に関する質問じゃなさそうだね?」
「はい。いたって個人的な質問です」
「大学では、気軽に口に出せないような?」
「はい。申しわけございませんが、お時間をいただけますでしょうか?」
にやっと黒川は笑って言った。
「じゃあ、僕の家に来るといい。『個人的』にね。明日からゴールデンウィークに入ることだし、僕はいつでも構わないよ」
「では、さっそくですが、明日伺います」
「いいとも。岸家に迎えの車を出そう」
「それには及びません。電車で参りますので」
「ふうん。それは君の家の人には内緒でっていうことだね。もちろん君の夫にも」
「……おっしゃる通りです」
おもむろに安寿はお辞儀をすると黒川の前から走り去って行った。安寿は一限の大教室がある校舎に入ると、すぐにトイレの個室に駆け込んだ。内鍵をかけて胸の激しく打つ鼓動を抑えようと呼吸を整える。自分の足が震えていることに気づいたが、もう後戻りはできない。安寿は灰色のコンクリートの天井を見上げて思った。
(航志朗さんが乗った飛行機は、もう空の上かな……)
「素晴らしいよ、安寿! 最高の出産祝いだな」
心から嬉しくなって安寿は微笑んだ。何よりも航志朗に喜んでもらえたからだ。
「アンとヴィーにこう言って渡すよ。『俺たちふたりからの贈り物だ』って」
航志朗の手を握って安寿はしっかりとうなずいた。
今朝、玄関を出る前に航志朗はつらそうに告げた。
「安寿、これからソウルと上海の仕事が大詰めを迎えるんだ。七月になるまで帰って来られないかもしれない。本当にごめん」
「そうですか」と静かに答えて安寿はうつむいた。だが、安寿はすぐに顔を上げて航志朗の手を握って言った。
「航志朗さん、お身体にはくれぐれも気をつけてくださいね。絶対に無理はしないで。お願いですから」
安寿は真剣なまなざしで航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。
「わかった。ありがとう、安寿」
ふたりはきつく抱き合った。航志朗はたまらずに安寿に唇を強く押しつけた。息の根が止まってしまいそうなほどの情熱的なキスだ。安寿は航志朗の腕の中であえいだ。目を見開いて思わず航志朗が唇を離すと安寿は航志朗にすがりつき、「航志朗さん、もっと、もっと……」と甘えるように訴えた。いつもと違う受け身ではない安寿の態度に、航志朗は身体じゅうを興奮させてまた唇を重ねた。
航志朗は心の底から叫びたい気持ちになった。
(安寿、君とずっとこうしていたい!)
その時、航志朗のスマートフォンが鳴って、タクシーがマンションのエントランスに到着したことを知らせた。安寿は急に夢から覚めたような顔をして、航志朗からそっと身を離した。そして、安寿は下を向いてつぶやくように言った。
「いってらっしゃい、航志朗さん……」
「安寿、……いってくる」
タクシーに乗り込む航志朗を見送る安寿の瞳は確かに潤んでいた。窓ガラス越しに安寿が何か思いつめた顔をしているような気がして、航志朗は胸騒ぎを覚えた。だが、しごく事務的にタクシーは出発した。安寿を一人残して。
航志朗をタクシーで送り出してから、安寿はマウンテンリュックサックを背負って電車で大学に向かった。すでに安寿は意を決していた。大学の正門の前で安寿は長い黒髪をひとつに結んで、黒川がやって来るのを待った。
黒川が乗ったダークグレーの高級車が目の前に停まった。車の中から黒川がいつものように降りて来た。
(私は、航志朗さんを守る……)
安寿はマウンテンリュックサックの持ち手をきつく握りしめた。
「おはようございます、黒川先生」
そう言うと、安寿は頭を下げた。
黒川は驚きもせずに言った。
「おはよう、安寿さん。わざわざこの僕を出迎えてくれたのかな。この気持ちのよいうららかな春の日に、大雪でも降らなければいいけれどね」
黒川は着物の袖を口元に当てて上品に笑った。黒川の漆黒の瞳はまとわりつくように安寿の顔を凝視した。
安寿は涼しい顔を崩さない。そして、無表情のままで淡々と言った。
「黒川先生。お尋ねしたいことがあるのですが」
「ふーん。そのご様子だと、僕の講義内容に関する質問じゃなさそうだね?」
「はい。いたって個人的な質問です」
「大学では、気軽に口に出せないような?」
「はい。申しわけございませんが、お時間をいただけますでしょうか?」
にやっと黒川は笑って言った。
「じゃあ、僕の家に来るといい。『個人的』にね。明日からゴールデンウィークに入ることだし、僕はいつでも構わないよ」
「では、さっそくですが、明日伺います」
「いいとも。岸家に迎えの車を出そう」
「それには及びません。電車で参りますので」
「ふうん。それは君の家の人には内緒でっていうことだね。もちろん君の夫にも」
「……おっしゃる通りです」
おもむろに安寿はお辞儀をすると黒川の前から走り去って行った。安寿は一限の大教室がある校舎に入ると、すぐにトイレの個室に駆け込んだ。内鍵をかけて胸の激しく打つ鼓動を抑えようと呼吸を整える。自分の足が震えていることに気づいたが、もう後戻りはできない。安寿は灰色のコンクリートの天井を見上げて思った。
(航志朗さんが乗った飛行機は、もう空の上かな……)