今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
黒川は歩き出した。安寿は黒川の後ろをついて行った。黒川家の広すぎる屋敷の中はしんと静まり返っている。一歩踏み出すごとに安寿の心音が急激に早まっていく。それに追い打ちをかけるように黒川が言った。
「念のため言っておくけれど、今、この家には、君と僕の他には誰もいない。人払いしてある。ふたりきりでここにいることは誰も知らない」
安寿は何も答えなかった。安寿と黒川は長い廊下を歩いて行く。黒川の大きな背中を安寿は見つめた。やはり航志朗の背中によく似ている。けがをした時に航志朗に背負ってもらったことを思い出す。何回も航志朗に抱きしめられたことを思い浮かべる。安寿の瞳に涙が浮かんで、黒川の背中がにじんで映る。
(私はこれから航志朗さんを裏切るんだ。でも、私は彼を守る)
安寿はワンピースの袖を両目に押しつけて涙をぬぐった。
見覚えのある広間に安寿と黒川は入った。真っ白な襖に囲まれた空っぽのあの広間だ。黒川は畳の上に座って中庭に向かって足を投げ出した。安寿は少し離れたところに正座して座った。その姿を見た黒川は首を傾けて笑って言った。
「安寿さん、礼儀正しくする必要はないよ。誰もいないんだから。君と僕以外にはね」
だが、安寿は体勢を崩さない。無言で膝に乗せた両手のこぶしを強く握りしめた。
しばらくふたりは離れて見つめ合った。やがて、黒川は安寿のそばに近づいた。安寿の胸の鼓動が早まる。黒川は安寿の頬に手を置いて低い声で言った。
「それでは、安寿さん。裸になって、ここに横たわってもらおうか」
「え? あ、あの……」
安寿は血の気が急激に引いていくのを感じた。目の前が薄暗くなってぐらぐら揺れる。安寿は固く目を閉じた。そして、心のなかで叫んだ。
(航志朗さん、……航志朗さん! ごめんなさい、私……)
真っ白な顔をした安寿は横に倒れて気を失った。安寿の長い黒髪が畳の上に広がった。目を閉じた安寿を見下ろして黒川が言った。
「……安寿さん? おやおや、冗談がきつすぎたかな」
黒川は安寿の手首を握って脈を取った。安寿の手のひらは強く握りすぎて真っ赤に腫れている。黒川は安寿の手のひらをそっとなでた。そして、小さくため息をつくと安寿を抱き上げて広間を出て行った。
「ん……」
安寿は覚えのある匂いに包まれていることを感じた。苔色の着物の布地がおぼろげに頭に浮かぶ。
(この匂い、あのひとの着物の匂いだ……)
「いや!」
安寿は自分の悲鳴に目を開けた。自分が広いベッドの上に寝かされていることに気がついた。すぐに掛けられた絹の毛布を急いでめくって着衣を確認した。スーツのジャケットが脱がされてブラウスのボタンが一つ外されていたが、特に異常はない。安寿は深いため息をついてから自分がいる部屋の中を見回した。それほど広い部屋ではない。ベッドの他にはダークブラウンのブックシェルフとデスクが置かれている。簡素としかいいようのない空間だ。窓が開いていてシンプルなレースカーテンが風に揺られている。
「気分はどう、安寿さん?」
急に声をかけられて、あわてて安寿は振り返った。背を向けて黒川がワインクーラーで冷やされたカラフェからグラスに水を注いでいた。
黒川はグラスを安寿に手渡した。
「さあ、飲むといい」
安寿は冷たい水を一気に飲んだ。身体に染み入ってぼんやりした頭をすっきりさせてくれる。思わず安寿はつぶやいた。
「おいしい……」
「裏庭にある井戸の水だよ。八百年間、涸れていない」
酒をあおるように黒川もその水を飲んだ。
「八百年……」
「その井戸にまつわる昔話がいろいろある。聞きたい?」
「いえ、結構です。あの、もう一杯いただいてもよろしいですか?」
黒川はうなずくと安寿のグラスに水を注いだ。礼を言ってからまた安寿は水晶のように透き通った水を飲んだ。
黒川はベッドに腰掛けた。そして、手を伸ばして安寿の髪に触れた。安寿は顔をしかめるがどうしても動けない。目を細めて黒川が言った。
「美しい黒髪だね。さぞかしあの着物が似合うだろうね」
いきなり黒川は安寿をベッドに押し倒した。安寿は短い悲鳴をあげた。安寿が握っていたグラスが床に落ちて転がった。安寿は身体じゅうを硬直させて目をぎゅっと閉じた。またあの匂いがする。黒川は安寿の両腕を握ってシーツに押しつけながら覆いかぶさって言った。
「安寿さん、君って本当にピュアなんだね。航志朗くんは、君のそんなところがたまらないのかな」
航志朗の名前を聞いて、安寿はどうしようもなく胸が痛くなる。呼吸もひどく苦しくなってくるが、必死になって安寿は考えた。
(私が航志朗さんのためにできることって、なに? 私がこのひとに差し出せるものって、なに? あの森と交換できるくらいの私の価値って、なに?)
目を閉じて岸家の裏の森の光景を思い浮かべる。あの森の樹々の匂い、池の灰色の水面、航志朗と一緒に池のほとりで一晩過ごした翌朝に見た木漏れ日の光を。その時、安寿は思い知った。
(いつのまにか、私もあの森をとても大切に思っている。航志朗さんと同じように)
安寿は目を開けた。そして、至近距離にある黒川の目を見て、安寿は静かに言った。
「私、あの森を描きます。……あの白い襖に」
黒川は口角を上げてにやりと笑って言った。
「安寿さん、君は二千億円の価値がある襖絵を描けるって言うのかい? ふうん、面白そうだね。でも、君の画力は未知数だ。もし僕の満足がいく絵が描けなかったら、君はどうする?」
「もし描けなかったら、その時は私を好きにしてください」
「商談成立ってところかな」
黒川はかがんで安寿の首筋に吸いつくように口づけた。安寿は顔をしかめてブラウスの袖で首を拭くと冷静な声で言った。
「さっそく契約違反ですか? ペナルティーとして減額していただきましょうか」
くすっと黒川は愉しそうに笑って言った。
「安寿さん。一見、君は天使のようにピュアに見えるけれど、実はとんでもなくどす黒い心を持った悪魔だったりして」
にっこりと安寿は微笑んだ。
「そうかもしれませんね、……皓貴さん」
安寿に初めて名前で呼ばれた黒川は表情を変化させた。もう安寿は黒川の存在が恐ろしくなくなっていた。黒川の手を振りほどくと、安寿はしっかりと立ち上がった。
「ではさっそくですが、襖絵に着手したいと存じます。画材はどういたしますか?」
「もちろん日本画の画材でお願いするよ」
「いちおう言っておきますが、私の専攻は油絵です。日本画は一度も描いたことがありません。それでもよろしいのでしょうか?」
黒川は安寿の目を見てうなずいた。
「僕は絵のテクニックなんてどうでもいいと思っている。唯一重要なのは、人の心を揺り動かすことができるか否かだ。ごくシンプルに言って、才能のない人間がある一定のレベルに持っていけるように身につけるのがテクニックなんじゃないかな。僕に言わせればまったく意味のない努力だね。限られたリソースである人生の時間の無駄遣いだ」
「皓貴さん。お訊きしたいのですが、あなたご自身は絵を描かれるのですか?」
「僕は描かない。鑑賞するだけだ。何か問題でも?」
「いいえ。高みの見物っていうことですね」
「念のため言っておくけれど、今、この家には、君と僕の他には誰もいない。人払いしてある。ふたりきりでここにいることは誰も知らない」
安寿は何も答えなかった。安寿と黒川は長い廊下を歩いて行く。黒川の大きな背中を安寿は見つめた。やはり航志朗の背中によく似ている。けがをした時に航志朗に背負ってもらったことを思い出す。何回も航志朗に抱きしめられたことを思い浮かべる。安寿の瞳に涙が浮かんで、黒川の背中がにじんで映る。
(私はこれから航志朗さんを裏切るんだ。でも、私は彼を守る)
安寿はワンピースの袖を両目に押しつけて涙をぬぐった。
見覚えのある広間に安寿と黒川は入った。真っ白な襖に囲まれた空っぽのあの広間だ。黒川は畳の上に座って中庭に向かって足を投げ出した。安寿は少し離れたところに正座して座った。その姿を見た黒川は首を傾けて笑って言った。
「安寿さん、礼儀正しくする必要はないよ。誰もいないんだから。君と僕以外にはね」
だが、安寿は体勢を崩さない。無言で膝に乗せた両手のこぶしを強く握りしめた。
しばらくふたりは離れて見つめ合った。やがて、黒川は安寿のそばに近づいた。安寿の胸の鼓動が早まる。黒川は安寿の頬に手を置いて低い声で言った。
「それでは、安寿さん。裸になって、ここに横たわってもらおうか」
「え? あ、あの……」
安寿は血の気が急激に引いていくのを感じた。目の前が薄暗くなってぐらぐら揺れる。安寿は固く目を閉じた。そして、心のなかで叫んだ。
(航志朗さん、……航志朗さん! ごめんなさい、私……)
真っ白な顔をした安寿は横に倒れて気を失った。安寿の長い黒髪が畳の上に広がった。目を閉じた安寿を見下ろして黒川が言った。
「……安寿さん? おやおや、冗談がきつすぎたかな」
黒川は安寿の手首を握って脈を取った。安寿の手のひらは強く握りすぎて真っ赤に腫れている。黒川は安寿の手のひらをそっとなでた。そして、小さくため息をつくと安寿を抱き上げて広間を出て行った。
「ん……」
安寿は覚えのある匂いに包まれていることを感じた。苔色の着物の布地がおぼろげに頭に浮かぶ。
(この匂い、あのひとの着物の匂いだ……)
「いや!」
安寿は自分の悲鳴に目を開けた。自分が広いベッドの上に寝かされていることに気がついた。すぐに掛けられた絹の毛布を急いでめくって着衣を確認した。スーツのジャケットが脱がされてブラウスのボタンが一つ外されていたが、特に異常はない。安寿は深いため息をついてから自分がいる部屋の中を見回した。それほど広い部屋ではない。ベッドの他にはダークブラウンのブックシェルフとデスクが置かれている。簡素としかいいようのない空間だ。窓が開いていてシンプルなレースカーテンが風に揺られている。
「気分はどう、安寿さん?」
急に声をかけられて、あわてて安寿は振り返った。背を向けて黒川がワインクーラーで冷やされたカラフェからグラスに水を注いでいた。
黒川はグラスを安寿に手渡した。
「さあ、飲むといい」
安寿は冷たい水を一気に飲んだ。身体に染み入ってぼんやりした頭をすっきりさせてくれる。思わず安寿はつぶやいた。
「おいしい……」
「裏庭にある井戸の水だよ。八百年間、涸れていない」
酒をあおるように黒川もその水を飲んだ。
「八百年……」
「その井戸にまつわる昔話がいろいろある。聞きたい?」
「いえ、結構です。あの、もう一杯いただいてもよろしいですか?」
黒川はうなずくと安寿のグラスに水を注いだ。礼を言ってからまた安寿は水晶のように透き通った水を飲んだ。
黒川はベッドに腰掛けた。そして、手を伸ばして安寿の髪に触れた。安寿は顔をしかめるがどうしても動けない。目を細めて黒川が言った。
「美しい黒髪だね。さぞかしあの着物が似合うだろうね」
いきなり黒川は安寿をベッドに押し倒した。安寿は短い悲鳴をあげた。安寿が握っていたグラスが床に落ちて転がった。安寿は身体じゅうを硬直させて目をぎゅっと閉じた。またあの匂いがする。黒川は安寿の両腕を握ってシーツに押しつけながら覆いかぶさって言った。
「安寿さん、君って本当にピュアなんだね。航志朗くんは、君のそんなところがたまらないのかな」
航志朗の名前を聞いて、安寿はどうしようもなく胸が痛くなる。呼吸もひどく苦しくなってくるが、必死になって安寿は考えた。
(私が航志朗さんのためにできることって、なに? 私がこのひとに差し出せるものって、なに? あの森と交換できるくらいの私の価値って、なに?)
目を閉じて岸家の裏の森の光景を思い浮かべる。あの森の樹々の匂い、池の灰色の水面、航志朗と一緒に池のほとりで一晩過ごした翌朝に見た木漏れ日の光を。その時、安寿は思い知った。
(いつのまにか、私もあの森をとても大切に思っている。航志朗さんと同じように)
安寿は目を開けた。そして、至近距離にある黒川の目を見て、安寿は静かに言った。
「私、あの森を描きます。……あの白い襖に」
黒川は口角を上げてにやりと笑って言った。
「安寿さん、君は二千億円の価値がある襖絵を描けるって言うのかい? ふうん、面白そうだね。でも、君の画力は未知数だ。もし僕の満足がいく絵が描けなかったら、君はどうする?」
「もし描けなかったら、その時は私を好きにしてください」
「商談成立ってところかな」
黒川はかがんで安寿の首筋に吸いつくように口づけた。安寿は顔をしかめてブラウスの袖で首を拭くと冷静な声で言った。
「さっそく契約違反ですか? ペナルティーとして減額していただきましょうか」
くすっと黒川は愉しそうに笑って言った。
「安寿さん。一見、君は天使のようにピュアに見えるけれど、実はとんでもなくどす黒い心を持った悪魔だったりして」
にっこりと安寿は微笑んだ。
「そうかもしれませんね、……皓貴さん」
安寿に初めて名前で呼ばれた黒川は表情を変化させた。もう安寿は黒川の存在が恐ろしくなくなっていた。黒川の手を振りほどくと、安寿はしっかりと立ち上がった。
「ではさっそくですが、襖絵に着手したいと存じます。画材はどういたしますか?」
「もちろん日本画の画材でお願いするよ」
「いちおう言っておきますが、私の専攻は油絵です。日本画は一度も描いたことがありません。それでもよろしいのでしょうか?」
黒川は安寿の目を見てうなずいた。
「僕は絵のテクニックなんてどうでもいいと思っている。唯一重要なのは、人の心を揺り動かすことができるか否かだ。ごくシンプルに言って、才能のない人間がある一定のレベルに持っていけるように身につけるのがテクニックなんじゃないかな。僕に言わせればまったく意味のない努力だね。限られたリソースである人生の時間の無駄遣いだ」
「皓貴さん。お訊きしたいのですが、あなたご自身は絵を描かれるのですか?」
「僕は描かない。鑑賞するだけだ。何か問題でも?」
「いいえ。高みの見物っていうことですね」