今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ジャケットを安寿に掛けると黒川は安寿の手を引っぱって玄関に向かった。黒川は安寿にショルダーバッグを手渡して靴を履くように言った。玄関の引き戸の鍵をかけずに、黒川はまた安寿の手を引いて見覚えのあるダークグレーの車の前に行った。そして、スマートキーで解錠して安寿を助手席に座らせた。黙って黒川は運転席に座ってシートベルトを締めるとエンジンをかけた。

 「どこへ行くんですか?」

 「九彩堂だ。銀座にある。その日本画の画材専門店を君は知っている?」

 「はい。一度だけ伺ったことがあります」

 「航志朗くんと?」

 軽く安寿はうなずいた。

 ハンドルを握ると黒川はおどけたように言った。

 「安寿さん、いちおう断っておくけれど、実は、僕、車の運転をするの、ものすごく久しぶりなんだよね」

 いきなり黒川は一気にアクセルを踏んで、ふたりを乗せた車は急発進した。あわてて安寿はシートベルトを締めた。

 安寿は腕時計を見た。午後一時を過ぎている。突然、きゅるると安寿の腹が高い音で鳴った。赤くなって安寿はあわてて腹を押さえた。実は今朝緊張しすぎて、朝食がのどを通らなかった。ちらっと安寿を横目で見て、カーナビゲーションを手間取りながら操作してから黒川が言った。

 「銀座まで三時間かかる。まず昼食をとろうか」

 そう言うと黒川はハンドルをきった。

 黒川の運転で連れて来られたのは、薄暗い竹林の中にある蕎麦屋だった。看板がいっさいない一軒家の古民家だ。黒川が車を駐車すると、すぐにグレーの作務衣を着た店主が出て来て、ふたりを案内した。他に客はいないようだ。古民家の離れの清涼な香りがする竹で建てられた東屋に入る。やがて、一人分の蕎麦が運ばれてきた。数種類の野菜の天ぷらと竹の容器に入った抹茶ババロアも添えられている。

 黒川は蕎麦茶をすすって言った。

 「どうぞ、ご遠慮なくお召しあがりください、安寿さん」

 安寿は不思議そうに尋ねた。

 「皓貴さんは召しあがらないのですか?」

 「ああ。特にお腹が空いていないから。僕は目の前に用意されないと食事をとらない(たち)でね。正直なところ『食欲』っていうものがわからない。幼少の頃からずっとだ。まあ、周りの者たちがあれこれ世話を焼いてくれるから、問題はないけれどね」

 安寿は蕎麦をすすりながら胸の内で思った。

 (……相当に変わったひと)

 ずっと黒川は頬杖をついて、安寿を興味深げに眺めていた。安寿は抹茶ババロアに漆のスプーンを入れた。ふと顔を上げて黒川を見る。思わず安寿は尋ねた。

 「よかったら、召しあがります?」

 そのままの姿勢で黒川は軽く微笑んで口を開けた。

 (えっ? 食べさせろってこと、私が?)

 もう尋ねてしまったのだ。仕方なく安寿は黒川の隣に座り、抹茶ババロアを黒川の口に運んだ。黒川はくすっと笑って言った。

 「ふうん。安寿さん、君って他人(ひと)に食べさせるのに慣れているね」

 安寿は赤くなって下を向いた。どうしても航志朗の姿を思い浮かべてしまう。

 黒川はわざとらしく言った。

 「今の君に食べさせてもらった行為は、おいくら?」

 安寿はあきれた表情をして黒川を見つめた。

 (私、こんなところで何をしているんだろう……)

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