今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ゴールデンウィーク初日のためか、銀座へ向かう道は大渋滞していた。車の中で安寿と黒川はひとことも会話を交わさずに沈黙していた。

 助手席で安寿はずっと目を閉じていたが、眠っていたのではなかった。まぶたの裏に岸家の裏の森の光景を思い浮かべていた。

 安寿は「日本画」について思いをめぐらせたが、油絵学科の安寿にとって、それはまったくの未知の分野だ。航志朗に買ってもらった天然岩絵具をときどき手に取って眺めてはいたものの、日本画は一度も描いたことがない。

 だんだん安寿は嫌な気持ちになってきた。無力な自分が馬鹿げたことを言い出したのを、きっとこの隣の男は手のひらの上で転がすように愉しんでいるのだ。

 だが、同時に身体と心の奥から力がわいてきてもいた。万が一でも航志朗の役に立てるかもしれない。二年前、航志朗は結婚までしてくれて自分を助けてくれたのだ。これは航志朗への感謝の行為だ。

 (たぶん、その方法を私は見つけたんだ。私はただひたすら絵を描くだけ。全身全霊で、私は航志朗さんを守る)

 黒川の運転する車が銀座に到着した時、すでに午後五時を回っていた。安寿と黒川は、やはり不気味な揺れ方をするエレベーターに乗って五階に上がった。

 エレベーターを降りると白檀の香りが漂ってきた。黒川は眉をひそめて約三時間ぶりに口を開いた。

 「この香り、僕、嫌いなんだよね」

 もちろん安寿は聞こえないふりをした。

 九彩堂を訪れるのは二年ぶりだが、店構えはまったく変わっていない。

 「いらっしゃいませ、黒川さま。……安寿さま」

 いきなり名前を呼ばれて安寿は胸がどきっとした。いつのまにかふたりの背後に店主の九条千里が立っていた。千里はグレイッシュな無地の色留袖を身にまとっている。千里の真っ白な髪に似合っていて、物静かで上品なたたずまいだ。

 黒川は千里の姿を目に入れると、店内に入ってガラス扉の陳列棚を見上げて言った。

 「九条さん、とりあえずこの棚の岩絵具を全部、二両づついただこう。それから、筆と刷毛、絵皿、膠鍋、乳鉢と乳棒なども、あなたにお任せで一式頼むよ」

 安寿は思わず黒川を見上げた。

 「かしこまりました、黒川さま。誠にありがとうございます。明日の午前中には、鎌倉のお屋敷にお届けいたします」

 黒川は会計をしなかった。黒川は冷ややかに安寿を見下ろすと、安寿の肩を抱いて言った。

 「さあ、行こうか。安寿さん」
 
 千里の視線を背中に感じながら、安寿は九彩堂を後にした。エレベーターを待っている間に安寿は黒川の手を外して言った。

 「では、私はここで失礼いたします。また明日、鎌倉のお屋敷に伺います」

 黒川は安寿の右手首を強引に握って言った。

 「安寿さん、わざわざ岸家に帰る必要はない。往復する時間がもったいないだろう。ゴールデンウィーク中、宅に滞在して襖絵を描いたらいい」

 その一方的な言葉に思いきり安寿は顔をしかめた。

 エレベーターが五階にやって来た。黒川は安寿の手を引っぱって中に乗り込んだ。安寿は黒川をにらみつけると、黒川の手を振り払ってエレベーターを降りた。

 「失礼いたします。皓貴さん」

 そう静かに言うと安寿は深くお辞儀をした。エレベーターのドアが閉まった。奥の壁に寄りかかって腕を組んだ黒川は苦笑を浮かべたようだった。エレベーターの階数ランプが下に降りて行くと、そのまま安寿は膝をついて床にへたり込んだ。

 「安寿さま」

 そっと安寿の肩にたくさんのしわが刻まれた白い手が置かれた。安寿は振り返って言った。

 「千里さん……」

 千里は安寿の手を取ると立ち上がらせて、エレベーターに乗り込んだ。

 安寿と千里は一つ上の六階に上がってエレベーターを降りた。簡素だが年季の入った木製の玄関ドアの前に立つ。

 「私どもの自宅です。お疲れのご様子なので、どうぞ我が家でご休憩なさってくださいませ」

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