今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 初めて安寿は九条家に足を踏み入れた。都心のビルディングの六階とはとうてい思えない一軒家のような空間だ。安寿は一番奥のリビングルームに通された。厚手のカーテンが閉じられていて、レトロなアール・デコ調のデザインのステンドグラスのランプがいくつも灯っている。千里は安寿をソファに座らせると「お茶をご用意いたしましょう」と言って部屋を出て行った。

 安寿は部屋の中を見回した。サイドボードの上に横長の日本画が飾ってあった。ふと安寿は立ち上がり、その絵を近くで眺めた。白い流線型の何かがうねるように描かれていて、波のしぶきのように銀粉が散っている。

 (……白い川?)

 安寿はその絵に心惹かれた。

 千里が戻って来た。千里の後ろには、安寿と同じ年頃の茶色がかった髪の若い男が立っていた。男はトレイを持っている。男は安寿に会釈すると、ローテーブルにティーセットを並べた。その男に目をやってから千里が言った。

 「安寿さま、ご紹介いたします。私の孫の、(よう)です」

 容と呼ばれた男が言った。

 「九条容です。よろしくお願いいたします」

 軽い見た目とは全然違う落ち着きはらった声だった。

 千里は続けて言った。

 「この春から、容は清華美術大学の日本画学科に編入いたしました」

 容も続けて言った。

 「清美大の三年次に学士編入しました。実は、僕、いちおう理系の大学をこの三月に卒業したのですが、祖母の圧力を受けまして」

 横目で千里を見ると肩をすくめて容は苦笑いした。

 思わず安寿は目を丸くしたが、あわててお辞儀をしてあいさつした。

 「初めまして。岸安寿と申します。清美大の油絵学科の二年生です。よろしくお願いいたします」

 控えめに容が言った。

 「航志朗さんは、お元気でいらっしゃいますか。海外でご事業をされているとうかがっておりますが」

 「えっ? 航志朗さんのことをご存じなのですか」

 「はい。子どもの頃、大変お世話になりました」

 「そうですか……」

 微笑んだ容を見て安寿は思った。

 (彼、航志朗さんの幼なじみなんだ)

 安寿は遠慮がちに容に尋ねた。

 「あの絵は、容さんがお描きになられたのですか?」

 「ええ、まあ」

 紅茶をすすって容はうつむいた。どことなく頬を染めている。

 「あの白く塗ってあるところは、胡粉(ごふん)で描かれたのですか?」

 容は千里をちらりと見てから言った。

 「はい、そうです。店で一番高価な胡粉を使いました」

 「美しい絵ですね。私、この絵が好きです」

 安寿は容が描いた日本画に見入った。顔を真っ赤にして、容は安寿の横顔を見つめた。

 安寿は紅茶とストロベリージャム入りのロシアンクッキーをいただくと、千里と容に礼を言った。

 「私、そろそろおいとまいたします。千里さん、容さん、本当にありがとうございました」

 「安寿さま。夜も遅くなりましたから、お屋敷まで容が車を出しましょう」

 有無を言わさない鋭いまなざしで千里が容に目配せした。

 すぐに容は立ち上がって言った。

 「はい。僕がお送りいたします。すぐに車を回して来ますね」

 容はポロシャツの襟を直しながら部屋を出て行った。
  
 あわてて安寿が千里に言った。

 「あの千里さん、大丈夫です。私、電車で帰りますから」

 千里はそれには答えずに安寿の瞳を見つめた。千里の瞳は透き通った深い泉のようだ。すべてを見透かされていると安寿は感じる。

 やがて、静かに千里は口を開いた。

 「安寿さまは、これから『門外不出の絵』をお描きになられるのですね」

 「『門外不出の絵』……」

 それは胸の奥底に突き刺さる言葉だった。すぐに安寿は思い当たった。

 (やっぱり千里さんは私がしようとしていることが見えていらっしゃるんだ)

 安寿は深々と千里に頭を下げて言った。

 「千里さん、お願いです。どうかこのことを航志朗さんには……」

 「承知いたしております、安寿さま」

 無表情で千里はうなずいた。

 すると、おもむろに千里は白い絹の巾着袋を安寿に差し出した。

 「安寿さま、黒川家に赴く際はこちらをお持ちくださいませ。きっとあなたを守ってくれます」

 「は、はい、わかりました。ありがとうございます、千里さん」

 その中身を見ずに、安寿は白い巾着袋を黒革のショルダーバッグにしまった。

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