今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第3節
その年の七月に入った。安寿は水曜日と金曜日の大学の午前の講義が終わった後と日曜日に黒川家へ襖絵を描きに行っていた。教職課程は四月いっぱいで履修をあきらめた。少しでも時間を捻出して早く筆を進めたかったからだ。
黒川家で襖絵を描き始めた安寿の変化に、莉子はすぐに気づいた。大学に入学してからも毎日のように一緒に昼食をとっていた安寿が、ゴールデンウィーク明けから急に家の用事があるからと言って帰ってしまう。それだけではない。月曜日や木曜日の一限の講義中に、あの勉強熱心な安寿がうとうとと居眠りをしているのだ。また、大学の構内で黒川と何事か話し込んでいる姿を何回も目撃した。莉子は胸騒ぎがして大翔に相談したが、「安寿さんには、何かプライベートな理由があるんじゃないのか。そのわけを彼女が話してくれるまでは、そっとしておいたほうがいい」と言われた。仕方なく莉子は当面の間は気づかないふりをすることにした。
大学入学以来ずっと安寿と莉子と大翔の三人でランチタイムを大学のカフェテリアや空き教室で過ごしてきたが、ときおり新しいメンバーが加わった。九条容だ。莉子の容への第一印象は最悪だった。髪は染めているのか茶色がかっていていかにも軽い男のように見えるし、安寿に対して妙になれなれしい。
容の前でわざと莉子は航志朗の話題を安寿にふった。それでも容は顔色ひとつ変えずに頰づえをついて微笑んでいた。
しばらく経ってから安寿に容が銀座の老舗日本画材専門店の店主の孫で航志朗の幼なじみだと聞いて、莉子は仰天した。
最近の安寿は日本画に興味があるらしく、日本画学科の容にいろいろ質問している。恋人どうしのように身を寄せて話す安寿と容の姿を見ると、莉子は腹が立ってきた。
(もうっ、安寿ちゃんには岸さんがいるのに!)
安寿はふと顔を上げて口をとがらせた莉子を見て首をかしげた。
(あれ? 莉子ちゃん、なんだかイライラしてる。……生理前かな)
この二か月半、安寿は黒川家の襖絵の骨書を墨でこつこつと描き進めていた。何回も墨をすって、ひたすら森の樹々の輪郭線を描いた。だが、頭のかたすみで安寿はずっと不安を感じていた。
(私、墨で線は描ける。でも、彩色をどうやって描いたらいいのかわからない。それに時間がないから、どうしても即興で描くしかない。だから絶対にやり直しがきかない)
安寿は筆を握って目の前にある白い襖と対峙している。今この瞬間もわずかの失敗さえも許されない。集中力が続く限りなりふり構わず筆を動かすしかない。とにかくこの骨書を描き終えるまでに、日本画の彩色の方法を早く独学しなければと安寿は考えていた。何かに追い立てられるかのように安寿はあせっていた。最近、よく眠れない夜が続いている。
「安寿さん、……安寿さん」
はっと安寿は目を開けて画家を見た。画筆を筆洗液に浸しながら岸は安寿を見つめて心配そうに言った。
「最近、なんだかお疲れのようですね。安寿さん、ご体調は大丈夫ですか?」
赤紅色の振袖をまとった安寿は、モデルの仕事中に居眠りをしていたことに気がついた。すぐに安寿は振袖の色よりも真っ赤になって謝った。
「岸先生、大変申しわけありません。私、仕事中に眠ってしまって」
「いえ、構いませんよ。七月に入ってから急に暑くなりましたしね。寝苦しい夜が続いていますから、寝不足にもなりますよね」
「ええ。でも、大変失礼いたしました。あの、岸先生。恒例の夏のスケッチ旅行の今年の日程は決まりましたか?」
「そういえば、まだあなたに伝えていませんでしたね。今年は八月に入ったら三週間ほど青森と岩手に行く予定です。伊藤さんから聞きましたが、安寿さんは今年の大学の夏休みは北海道に行かないそうですね?」
「はい。学びたいことがあるので、夏休み中も大学の図書館に通うつもりでいます」
「そうですか。今年の夏も猛暑になりそうですし、くれぐれもお身体には気をつけてくださいね、安寿さん」
「はい。ありがとうございます、岸先生」
安寿は肘掛け椅子に座ったまま丁寧に頭を下げた。
今、岸は安寿のまとった振袖の模様を精密に描いている。キャンバスの上に絹の糸で刺繍をしているかのように、一筆一筆細心の注意を払って丁寧に筆致を刺していく。モデルの身体のラインに沿って絵の中の刺繍はふくよかに膨らんでいる。それだけではない。振袖の下のモデルの肌が息づく質感まで写し取る気迫に満ちている。
安寿は岸の写実絵画を見て改めて思う。岸先生の画力は本物だ。そして、一流そのものだ。私なんて目の前の画家の足元にも及ばない。
安寿は自室に戻った。デスクの上には大きな分厚い専門書が置かれていて付箋がところどころに挟んである。その専門書のタイトルは『日本画画法大全』だ。容に相談して大学の図書館で借りてきた。本当は大学の日本画の講義を受けたかったが、黒川家の襖絵を描きながら二年次の単位を取得するだけで手いっぱいで不可能だった。ページを繰って専門書の内容に見入るが、すぐに安寿は深々とため息をついた。日本画独自の技法は本を読むだけではわからない。
そこで、安寿は容に教えてほしいと頼み込むと、いとも簡単に容は承諾した。
「もちろんいいですよ、安寿さん。僕でよかったら喜んで。基本的な技法なら教えてあげられると思います。なんといっても、僕は日本画歴二十三年ですからね!」
ウインクして茶目っ気たっぷりで容は言ったものの、容は頭のかたすみで思った。
(本当は、おばあさまの方が適任だけどね、日本画歴八十三年だから)
ひとまず安寿は安堵したが、それと同時に容に謝礼を贈らなければと思って尋ねた。
「容さん。私、前もってあなたにお礼がしたいです。どうすればいいですか?」
まじまじと安寿に見つめられて、容はどぎまぎした。ひそかに容は深いため息をついた。
(あーあ。もし安寿さんが結婚していなかったら、この瞬間から恋がはじまっていたかもしれないのに。「謝礼は君で」なーんて言ってさ。安寿さんが航志朗さんの「彼女」だったらともかくとして、「妻」じゃどうしようもないもんな。……って、僕は何を考えているんだ! 航志朗さん、すいません!)
黒川家で襖絵を描き始めた安寿の変化に、莉子はすぐに気づいた。大学に入学してからも毎日のように一緒に昼食をとっていた安寿が、ゴールデンウィーク明けから急に家の用事があるからと言って帰ってしまう。それだけではない。月曜日や木曜日の一限の講義中に、あの勉強熱心な安寿がうとうとと居眠りをしているのだ。また、大学の構内で黒川と何事か話し込んでいる姿を何回も目撃した。莉子は胸騒ぎがして大翔に相談したが、「安寿さんには、何かプライベートな理由があるんじゃないのか。そのわけを彼女が話してくれるまでは、そっとしておいたほうがいい」と言われた。仕方なく莉子は当面の間は気づかないふりをすることにした。
大学入学以来ずっと安寿と莉子と大翔の三人でランチタイムを大学のカフェテリアや空き教室で過ごしてきたが、ときおり新しいメンバーが加わった。九条容だ。莉子の容への第一印象は最悪だった。髪は染めているのか茶色がかっていていかにも軽い男のように見えるし、安寿に対して妙になれなれしい。
容の前でわざと莉子は航志朗の話題を安寿にふった。それでも容は顔色ひとつ変えずに頰づえをついて微笑んでいた。
しばらく経ってから安寿に容が銀座の老舗日本画材専門店の店主の孫で航志朗の幼なじみだと聞いて、莉子は仰天した。
最近の安寿は日本画に興味があるらしく、日本画学科の容にいろいろ質問している。恋人どうしのように身を寄せて話す安寿と容の姿を見ると、莉子は腹が立ってきた。
(もうっ、安寿ちゃんには岸さんがいるのに!)
安寿はふと顔を上げて口をとがらせた莉子を見て首をかしげた。
(あれ? 莉子ちゃん、なんだかイライラしてる。……生理前かな)
この二か月半、安寿は黒川家の襖絵の骨書を墨でこつこつと描き進めていた。何回も墨をすって、ひたすら森の樹々の輪郭線を描いた。だが、頭のかたすみで安寿はずっと不安を感じていた。
(私、墨で線は描ける。でも、彩色をどうやって描いたらいいのかわからない。それに時間がないから、どうしても即興で描くしかない。だから絶対にやり直しがきかない)
安寿は筆を握って目の前にある白い襖と対峙している。今この瞬間もわずかの失敗さえも許されない。集中力が続く限りなりふり構わず筆を動かすしかない。とにかくこの骨書を描き終えるまでに、日本画の彩色の方法を早く独学しなければと安寿は考えていた。何かに追い立てられるかのように安寿はあせっていた。最近、よく眠れない夜が続いている。
「安寿さん、……安寿さん」
はっと安寿は目を開けて画家を見た。画筆を筆洗液に浸しながら岸は安寿を見つめて心配そうに言った。
「最近、なんだかお疲れのようですね。安寿さん、ご体調は大丈夫ですか?」
赤紅色の振袖をまとった安寿は、モデルの仕事中に居眠りをしていたことに気がついた。すぐに安寿は振袖の色よりも真っ赤になって謝った。
「岸先生、大変申しわけありません。私、仕事中に眠ってしまって」
「いえ、構いませんよ。七月に入ってから急に暑くなりましたしね。寝苦しい夜が続いていますから、寝不足にもなりますよね」
「ええ。でも、大変失礼いたしました。あの、岸先生。恒例の夏のスケッチ旅行の今年の日程は決まりましたか?」
「そういえば、まだあなたに伝えていませんでしたね。今年は八月に入ったら三週間ほど青森と岩手に行く予定です。伊藤さんから聞きましたが、安寿さんは今年の大学の夏休みは北海道に行かないそうですね?」
「はい。学びたいことがあるので、夏休み中も大学の図書館に通うつもりでいます」
「そうですか。今年の夏も猛暑になりそうですし、くれぐれもお身体には気をつけてくださいね、安寿さん」
「はい。ありがとうございます、岸先生」
安寿は肘掛け椅子に座ったまま丁寧に頭を下げた。
今、岸は安寿のまとった振袖の模様を精密に描いている。キャンバスの上に絹の糸で刺繍をしているかのように、一筆一筆細心の注意を払って丁寧に筆致を刺していく。モデルの身体のラインに沿って絵の中の刺繍はふくよかに膨らんでいる。それだけではない。振袖の下のモデルの肌が息づく質感まで写し取る気迫に満ちている。
安寿は岸の写実絵画を見て改めて思う。岸先生の画力は本物だ。そして、一流そのものだ。私なんて目の前の画家の足元にも及ばない。
安寿は自室に戻った。デスクの上には大きな分厚い専門書が置かれていて付箋がところどころに挟んである。その専門書のタイトルは『日本画画法大全』だ。容に相談して大学の図書館で借りてきた。本当は大学の日本画の講義を受けたかったが、黒川家の襖絵を描きながら二年次の単位を取得するだけで手いっぱいで不可能だった。ページを繰って専門書の内容に見入るが、すぐに安寿は深々とため息をついた。日本画独自の技法は本を読むだけではわからない。
そこで、安寿は容に教えてほしいと頼み込むと、いとも簡単に容は承諾した。
「もちろんいいですよ、安寿さん。僕でよかったら喜んで。基本的な技法なら教えてあげられると思います。なんといっても、僕は日本画歴二十三年ですからね!」
ウインクして茶目っ気たっぷりで容は言ったものの、容は頭のかたすみで思った。
(本当は、おばあさまの方が適任だけどね、日本画歴八十三年だから)
ひとまず安寿は安堵したが、それと同時に容に謝礼を贈らなければと思って尋ねた。
「容さん。私、前もってあなたにお礼がしたいです。どうすればいいですか?」
まじまじと安寿に見つめられて、容はどぎまぎした。ひそかに容は深いため息をついた。
(あーあ。もし安寿さんが結婚していなかったら、この瞬間から恋がはじまっていたかもしれないのに。「謝礼は君で」なーんて言ってさ。安寿さんが航志朗さんの「彼女」だったらともかくとして、「妻」じゃどうしようもないもんな。……って、僕は何を考えているんだ! 航志朗さん、すいません!)