今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
昨夜、航志朗は自身がプロデュースをした来週末にグランドオープンする美術館のレセプションパーティーに出席していた。
十九世紀後半に、ある実業家が上海市の郊外に建てた西洋式の大邸宅をリノベーションした美術館だ。シノワズリモダンな空間に世界的実業家の妻のプライベートコレクションが展示されている。
その妻の名前は、黄静思。名前の通り奥深い瞳の輝きを持つ五十代前半の賢明で物静かな女性だ。静思はクラシックカメラが好きだった亡き父の影響で写真を撮るのが趣味だ。夫と世界中を旅して、父の形見であるカメラで旅先の光景を撮影している。暗室も自宅に所有していて自ら写真を現像している。その写真は家族と親しい友人にしか見せていない「門外不出の写真」として、アート業界では有名だ。
静思は夫と訪れたアイスランドで、ある小規模な美術館に入った。間欠泉を観に行く途中で偶然見つけたのだ。
そこで静思は信じがたい体験をした。美術館のエントランスホールにはめ込まれた天に駆け上がって行く牛の絵の下で、静思は身体の内側からの声を聞いた。その声はこう言った。
「静思、ありのままに生きなさい」
それは苦労が多かった母の最期の言葉だった。多事にかまけてすっかり忘れていた。学生時代に知り合った夫は起業し、時流に乗って大成功を収めた。巨大企業の社長夫人として静思は夫の隣で社交に付き合った。マスコミの前にも姿をさらした。もともと人付き合いが苦手だった静思はずっと大きなストレスを抱えていて、いつも薬が手放せなかった。
その時、静思は決断した。そして、「私は、もう公の場には出ない」と夫に美術館の前で宣言した。夫は優しいまなざしで静思を見つめて言った。
「わかった、静思。今まで僕たちは働き過ぎてきたね。僕はもう引退するよ。残りの人生を君と二人でゆっくり楽しむために」
アイスランドから帰国すると、夫はあっさりとビジネスの一線を退いた。周囲の人びとはたいへん驚いた。ニュースのトピックにもなった。アートを好んでいて、美術館を所有することが子どもの頃からの夢だった夫は、十年前、上海市内の芸術文化エリアとして再開発された土地の一部に大規模な現代アートミュージアムを建設した。それは当時のアートシーンで大きな話題になった。夫はその美術館を上海市に寄贈した。
夫は起業してからずっと世界各地で現代アート作品を買い集めていた。どれも国内外の世界的に著名なアーティストの作品だったが、静思はどの作品にも心惹かれなかった。むしろ、その作品を見ると持病の胃痛が悪化した。確かに新鮮なエネルギーに満ちあふれた素晴らしい作品だ。誰が見ても感心してしまうような。だが、静思は名もない絵描きが描いた素朴な絵を好んだ。田舎の道端で売られている絵や、ほこりを被った商売っ気のないアンティークショップの床に長年立てかけられた絵の中から気に入った絵を、子どものおこづかい程度の金額で買い求めていた。
子どもが無心に描いた絵も好きだ。静思には一人息子がいて、アメリカに在住している。息子が子どもの頃に描いていた絵はどうしても捨てられずにとってある。
十九世紀後半に、ある実業家が上海市の郊外に建てた西洋式の大邸宅をリノベーションした美術館だ。シノワズリモダンな空間に世界的実業家の妻のプライベートコレクションが展示されている。
その妻の名前は、黄静思。名前の通り奥深い瞳の輝きを持つ五十代前半の賢明で物静かな女性だ。静思はクラシックカメラが好きだった亡き父の影響で写真を撮るのが趣味だ。夫と世界中を旅して、父の形見であるカメラで旅先の光景を撮影している。暗室も自宅に所有していて自ら写真を現像している。その写真は家族と親しい友人にしか見せていない「門外不出の写真」として、アート業界では有名だ。
静思は夫と訪れたアイスランドで、ある小規模な美術館に入った。間欠泉を観に行く途中で偶然見つけたのだ。
そこで静思は信じがたい体験をした。美術館のエントランスホールにはめ込まれた天に駆け上がって行く牛の絵の下で、静思は身体の内側からの声を聞いた。その声はこう言った。
「静思、ありのままに生きなさい」
それは苦労が多かった母の最期の言葉だった。多事にかまけてすっかり忘れていた。学生時代に知り合った夫は起業し、時流に乗って大成功を収めた。巨大企業の社長夫人として静思は夫の隣で社交に付き合った。マスコミの前にも姿をさらした。もともと人付き合いが苦手だった静思はずっと大きなストレスを抱えていて、いつも薬が手放せなかった。
その時、静思は決断した。そして、「私は、もう公の場には出ない」と夫に美術館の前で宣言した。夫は優しいまなざしで静思を見つめて言った。
「わかった、静思。今まで僕たちは働き過ぎてきたね。僕はもう引退するよ。残りの人生を君と二人でゆっくり楽しむために」
アイスランドから帰国すると、夫はあっさりとビジネスの一線を退いた。周囲の人びとはたいへん驚いた。ニュースのトピックにもなった。アートを好んでいて、美術館を所有することが子どもの頃からの夢だった夫は、十年前、上海市内の芸術文化エリアとして再開発された土地の一部に大規模な現代アートミュージアムを建設した。それは当時のアートシーンで大きな話題になった。夫はその美術館を上海市に寄贈した。
夫は起業してからずっと世界各地で現代アート作品を買い集めていた。どれも国内外の世界的に著名なアーティストの作品だったが、静思はどの作品にも心惹かれなかった。むしろ、その作品を見ると持病の胃痛が悪化した。確かに新鮮なエネルギーに満ちあふれた素晴らしい作品だ。誰が見ても感心してしまうような。だが、静思は名もない絵描きが描いた素朴な絵を好んだ。田舎の道端で売られている絵や、ほこりを被った商売っ気のないアンティークショップの床に長年立てかけられた絵の中から気に入った絵を、子どものおこづかい程度の金額で買い求めていた。
子どもが無心に描いた絵も好きだ。静思には一人息子がいて、アメリカに在住している。息子が子どもの頃に描いていた絵はどうしても捨てられずにとってある。