今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その買い集めた絵を並べて眺めるプライベートな場所が、思いも寄らずに小さな美術館としてオープンすることになった。

 アイスランドの美術館で、静思はある男の名前を知った。本当は牛の絵のアーティストの名前を知りたかったのだが、公表されていないとのことだった。それを聞いて静思は興味を覚えた。これほどまでに心を揺り動かされる作品を描いたアーティストだというのに名乗らないとは、何か深い理由があるはずだ。おそらくアート業界では知られていないだろうが、相当の才能を持った人物だろう。

 静思はアイスランドの美術館をプロデュースをした男が所属するカンパニーを調べて、その男にコンタクトを取った。

 やがて、その男が上海の自宅にやって来た。男は流暢な北京語で「岸航志朗です」と名乗った。静思は端正な彼の風貌を見て不思議に思った。外見は東洋人そのものだが、美しい琥珀色の瞳をしている。ヨーロッパのアンティークミュージアムで見たビスクドールの瞳のようだ。プライベートなことを初対面の人に尋ねるのは失礼だとは思ったが、静思は彼に出生地を尋ねた。彼は「東京(ドンジン)です」と静かに答えた。

 「岸先生(さん)。アート事業に実績のあるあなたにプロデュースを依頼しましたが、実は、一般公開する美術館ではないのです。言うなれば、私の個人的な趣味の空間なんです」

 そう言うと、静思は顔を赤らめて下を向いた。静思は自分がわがままを言っている幼い子どもように思えたのだ。

 「わかりました。ではまず、黄女士(さん)のコレクションを拝見させていただいてもよろしいでしょうか」と彼は驚きもせずに丁寧な口調で言った。

 心から静思は感心した。確か息子と同年代のはずだが、とても落ち着いている。静思は彼の左手に目を落とした。薬指に結婚指輪をしている。大いに静思は納得した。尋ねることはできなかったが、胸の内でこっそりと思った。

 (彼、愛する奥さまがいらっしゃるのね。きっと、可愛いお子さまも)

 彼は静思の個人的なコレクションを一枚一枚丁寧に見ていった。そして、なぜか彼は寂しげに微笑みながら言った。

 「黄女士、あなたは幸せな子ども時代を過ごされたのでしょうね。優しいご両親に見守られながら」

 心の底から驚いて、静思は彼の琥珀色の瞳を見つめて早口で言った。

 「ええ。幸せな子ども時代でした。共に教師だった両親は遅い結婚をして、私が生まれました。ずっと貧しかったけれど、北京の公営住宅に住んで、私を大学まで出してくれました」

 静思は自分に驚いた。夫以外には話したことがない生い立ちをこの初対面の男にすんなりと話してしまった。

 「あなたのコレクションには『ご両親への感謝の気持ち』を感じます。失礼、私の個人的な感想を申しあげてしまいました」

 軽く彼は静思に頭を下げた。

 「岸先生、私の『両親への感謝の気持ち』とは、どういう意味ですか?」

 「はい。あなたのコレクションには朗らかなノスタルジーを感じます。ご両親と手をつないで笑っているあなたの姿がどこかに描かれているような作品を選ばれてこられたのですね。実際には描かれていませんが」

 静思は一枚の絵を手に取った。確かフランスの片田舎で買い求めた絵だ。西日に照らされた黄金色の麦畑がつつましやかに描かれている。生まれ育った北京市内には麦畑はない。だが、両親と手をつないでこの光景を見たことがあると思い出した。

 目を閉じて、静思はその光景をまぶたの裏に映した。その日の夕方、古びた集合住宅のコンクリートの壁を西日が照らしていた。その時、ふと母が言った。

 「あの壁に麦畑が広がっているみたいに見える。故郷を思い出すわ」

 母は中国東北部の出身だった。幼い静思は母を見上げた。母は目に涙を浮かべていた。父はそんな母を優しく見つめると、おどけて言った。

 「パパ、お腹が空いちゃったなー! 早く家に帰って、皆で夜ごはんをつくろう!」

 つながった三つの影が走り出した。

 目を開けると静思は微笑んで言った。

 「岸先生、私の絵をよろしくお願いします」

 彼は微かに涙ぐんだ静思の目を見てうなずいた。

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