今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第4節
八月の初日にキャメルの麦わら帽子を被った安寿は新幹線に乗って東京を離れた。その二日前に安寿は銀座の九彩堂に行って日本画の顔彩と画筆を買い求めた。店番をしていた容が品物を梱包しながら安寿に言った。
「安寿さん、いいですねー。あさってからご旅行ですか。航志朗さんによろしくお伝えくださいね」
嬉しそうに微笑みながら財布をショルダーバッグから取り出した安寿に容はおどけて言った。
「安寿さんには百パーセント割引いたしますので、お代はゼロ円です!」
「もうっ、容さんだめですよ! ちゃんと払わせてください!」
口をへの字に曲げた安寿はキャッシュトレイに画材代をきっかり置いた。容はひそかにため息をついて思った。
(怒った安寿さんの顔も可愛いなあ。本当に航志朗さんがうらやましいよ)
それから安寿は久しぶりに黒川画廊に向かった。一階では夏をテーマにした常設展が開かれているが、照明が落とされて暗い。奥の階段を上って四階のオフィスに着くと、華鶴がソファに座ってアイスコーヒーを飲みながら安寿を迎えた。安寿に華鶴自らアイスティーを用意してくれた。
画廊に足を踏み入れてからずっと安寿は緊張していた。黒川家に通って襖絵を描いていることをいつか華鶴に知られるだろうと思っている。それとも黒川はすでに叔母の華鶴に話したのだろうか。それに東京から遠く離れた見知らぬ土地で、航志朗と二人きりで一か月間も一緒に休暇を過ごすことを伝えるのがどうしても気恥ずかしい。
アイスティーにささったペーパーストローが力を込めて握り過ぎてぐにゃっと曲がった。それを一瞥した華鶴が軽く笑ったように見えて、安寿は下を向いた。
華鶴は白金色に光る窓枠を見てひとりごとを言うようにつぶやいた。
「今年の夏も本当に暑いわね」
安寿も窓の外を見た。ビルディングの重なりのわずかな隙間に青い空が見える。意を決して、安寿は顔を上げて言った。
「あの、華鶴さん。私、あさってから熊本に行って参ります。航志朗さんがあちらでお仕事があるとのことで、八月いっぱい熊本に滞在されるそうなので」
珍しく華鶴はちゅっと大きめの音を立ててアイスコーヒーを飲むと、安寿を見つめて目を細めた。思わず安寿は胸がどきっとした。
「伊藤から聞いているわ。安寿さんがそうしたいと思うのなら行ってらっしゃい。あなたは大人なんだし、私は何も言うことはないわ」
安寿の黒革のショルダーバッグの隣に置いてある九彩堂の紙袋に気づいて、華鶴が尋ねた。
「あら安寿さん、日本画の画材を買って来たの」
安寿は胸の鼓動を早めながら答えた。
「はい。熊本で日本画の習作を描こうかと思ったんです」
「そう。意外ね、あなたが日本画を描くなんて」
まじまじと華鶴に見つめられて、思わず安寿は下を向いた。
突然、華鶴のスマートフォンに電話がかかってきた。「ちょっと、ごめんなさい」と言って画面をタップすると、華鶴は英語で話し始めた。海外在住の岸の顧客からの電話のようだ。華鶴は立ち上がって、デスクの上のメモ用紙に何やら走り書きをしていた。相変わらず華鶴は忙しそうだ。安寿はアイスティーを飲み干すと、奥のミニキッチンに行ってグラスを洗った。ソファに戻って来ると、華鶴が近所のデパートの紙袋を安寿に手渡して言った。
「安寿さん、開けてみて」
中には大きめの丸型の箱が入っていた。微笑んだ華鶴の顔を見てから箱のふたを開けると、ラフィアで編まれた洗練されたデザインの麦わら帽子が出てきた。
「華鶴さん、これ……」
そっと華鶴は麦わら帽子を安寿に被せて言った。
「とてもよくお似合いよ、安寿さん。熊本は日射しが強いわ。日焼けしないようにね」
「はい。ありがとうございます、華鶴さん」
そのまま安寿は華鶴に贈られた麦わら帽子を被って岸家に帰った。
「安寿さん、いいですねー。あさってからご旅行ですか。航志朗さんによろしくお伝えくださいね」
嬉しそうに微笑みながら財布をショルダーバッグから取り出した安寿に容はおどけて言った。
「安寿さんには百パーセント割引いたしますので、お代はゼロ円です!」
「もうっ、容さんだめですよ! ちゃんと払わせてください!」
口をへの字に曲げた安寿はキャッシュトレイに画材代をきっかり置いた。容はひそかにため息をついて思った。
(怒った安寿さんの顔も可愛いなあ。本当に航志朗さんがうらやましいよ)
それから安寿は久しぶりに黒川画廊に向かった。一階では夏をテーマにした常設展が開かれているが、照明が落とされて暗い。奥の階段を上って四階のオフィスに着くと、華鶴がソファに座ってアイスコーヒーを飲みながら安寿を迎えた。安寿に華鶴自らアイスティーを用意してくれた。
画廊に足を踏み入れてからずっと安寿は緊張していた。黒川家に通って襖絵を描いていることをいつか華鶴に知られるだろうと思っている。それとも黒川はすでに叔母の華鶴に話したのだろうか。それに東京から遠く離れた見知らぬ土地で、航志朗と二人きりで一か月間も一緒に休暇を過ごすことを伝えるのがどうしても気恥ずかしい。
アイスティーにささったペーパーストローが力を込めて握り過ぎてぐにゃっと曲がった。それを一瞥した華鶴が軽く笑ったように見えて、安寿は下を向いた。
華鶴は白金色に光る窓枠を見てひとりごとを言うようにつぶやいた。
「今年の夏も本当に暑いわね」
安寿も窓の外を見た。ビルディングの重なりのわずかな隙間に青い空が見える。意を決して、安寿は顔を上げて言った。
「あの、華鶴さん。私、あさってから熊本に行って参ります。航志朗さんがあちらでお仕事があるとのことで、八月いっぱい熊本に滞在されるそうなので」
珍しく華鶴はちゅっと大きめの音を立ててアイスコーヒーを飲むと、安寿を見つめて目を細めた。思わず安寿は胸がどきっとした。
「伊藤から聞いているわ。安寿さんがそうしたいと思うのなら行ってらっしゃい。あなたは大人なんだし、私は何も言うことはないわ」
安寿の黒革のショルダーバッグの隣に置いてある九彩堂の紙袋に気づいて、華鶴が尋ねた。
「あら安寿さん、日本画の画材を買って来たの」
安寿は胸の鼓動を早めながら答えた。
「はい。熊本で日本画の習作を描こうかと思ったんです」
「そう。意外ね、あなたが日本画を描くなんて」
まじまじと華鶴に見つめられて、思わず安寿は下を向いた。
突然、華鶴のスマートフォンに電話がかかってきた。「ちょっと、ごめんなさい」と言って画面をタップすると、華鶴は英語で話し始めた。海外在住の岸の顧客からの電話のようだ。華鶴は立ち上がって、デスクの上のメモ用紙に何やら走り書きをしていた。相変わらず華鶴は忙しそうだ。安寿はアイスティーを飲み干すと、奥のミニキッチンに行ってグラスを洗った。ソファに戻って来ると、華鶴が近所のデパートの紙袋を安寿に手渡して言った。
「安寿さん、開けてみて」
中には大きめの丸型の箱が入っていた。微笑んだ華鶴の顔を見てから箱のふたを開けると、ラフィアで編まれた洗練されたデザインの麦わら帽子が出てきた。
「華鶴さん、これ……」
そっと華鶴は麦わら帽子を安寿に被せて言った。
「とてもよくお似合いよ、安寿さん。熊本は日射しが強いわ。日焼けしないようにね」
「はい。ありがとうございます、華鶴さん」
そのまま安寿は華鶴に贈られた麦わら帽子を被って岸家に帰った。