今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
時計を見ると午後四時を過ぎていた。キッチンに行って冷蔵庫と冷凍庫を開けてみたり、キッチンの奥にあるパントリーをのぞいてみて安寿は驚いた。
「航志朗さん、なんでもそろっていますよ。ないものは生鮮食品だけ。ここに置いてあるものを使わせていただけるのなら、今日はお買い物の必要はないと思います」
「確かになんでもある。今日は買い物に出かけなくていいな」
安寿は不思議そうに言った。
「あの、伊藤さんか咲さんが用意してくださったんでしょうか?」
目を丸くしてから航志朗は肩を震わせて笑い出した。
「まさか。たぶん古閑夫妻に頼まれた本家の家政婦さんが用意してくれたんじゃないか。着いたばかりだからありがたいな」
「古閑夫妻?」
「ああ、先週、上海のレセプションパーティーで知り合ったんだ。顧客から日本人の親友夫婦だと紹介された」
航志朗は続けて尋ねた。
「安寿、君は『九州の古閑家』って、聞いたことがある?」
安寿は首を振って言った。
「いいえ」
「俺は名前だけは知っていたんだけど、『古閑家』は、明治時代に海外貿易で金融大資本家になったこの地方出身の一族だ。昔は私塾を開いたり、この地方の優秀な子弟に金銭援助して東京や海外の大学に進学させていたりしたんだ。特に美術の才能がある青年たちを金銭的に支えた後援者になっていた」
「パトロンってことですか?」
「そう。今現在、一族の子孫は二人の姉妹だけになって、その妹が上海で知り合った古閑アカネさんだ」
「熊本駅の地下駐車場でお話しされていたのはその方ですか?」
「ああ。古閑夫妻は東京に住んでいるんだけど、今週末、本家に里帰りされるんだ。君に会いたいって言っていた。後であいさつに行かないとな」
「はい。わかりました」
「で、その古閑姉妹に仕事を依頼されたんだ」
そこで航志朗は言葉に詰まった。
「どんなお仕事なんですか?」
「詳細はわからないが、おそらく古閑コレクションを一般公開する私立美術館設立のコンサルティングだろう」
「航志朗さんの新しいお仕事ということですね?」
「……まあな」
そう言うと、航志朗はため息をついた。
(こんなはずじゃなかったんだけどな……)
あの日、上海のレセプションパーティーで、展示された絵の前で仲良さそうに談笑していた日本人夫婦を黄静思から紹介された。「岸先生、私の愛する親友夫婦です。古閑先生と私たち夫婦は、北京の大学で知り合ったんです」と言って、静思はその日本人夫婦に向かって親しげに微笑んだ。
来週から一か月の休暇を取って安寿と過ごすことに航志朗は心底浮かれていた。帰国してからどこで安寿と過ごそうかと仕事の合間にスマートフォンで検索していた。そこで、航志朗はつい軽い気持ちで古閑アカネに訊いてしまった。
「来週から妻と夏季休暇を過ごす予定なのですが、日本国内でどこかよい場所をご存じないでしょうか? 東京から電車か車で行けるところで」
深緋の艶やかな訪問着を身にまとったアカネは、逆に航志朗に尋ねた。
「奥さまは、……海がお好きかしら?」
視線を上にして航志朗は思った。
(そういえば、安寿と海に行ったことがないな)
航志朗は正直に答えた。
「わかりません。まだふたりで海に行ったことがないので」
真っ赤に塗られた唇の口角を上げて、アカネはにっこりと笑って言った。
「では、決まりですね。私どもの別荘をお使いください、岸航志朗先生」
その時、航志朗はアカネが言った「決まり」という言葉を誤解していた。古閑家が所有しているという九州の海の近くの別荘を貸してもらうだけのつもりだった。その場でアカネが自身のスマートフォンを操作して、中にあった別荘の画像を見せてもらって、つい妄想がふくらんでしまったのだ。
(こんなところで、安寿と二人っきりで過ごせたら……)
レセプションパーティーがお開きになった後、外灘を歩いてから上海のホテルの部屋に戻るとアンから電話があった。あからさまにアンはあきれ返った口調で航志朗に言った。
「コーシ。おまえって、ホントにそういうところ、日本人なんだなあ……」
「ん? なんのことだ」
「せっかく久しぶりにアンジュとゆっくり過ごせるように、僕が気を利かせて長期休暇を取らせてやったのに、わざわざそこに仕事を入れることはないだろう。勤勉すぎるだろ、アンジュに嫌われるぞ!」
「だからアン、なんのことだ?」
「二年前からオファーが入っていた日本のコモリファミリーの案件、引き受けたんだって? どうしたんだよ、コーシ。おまえさ、ずっと日本国内の仕事は絶対にしないって言っていたじゃないか」
「はあ? なんだよ、それ……」
腕を組んだ航志朗は、窓の外の派手なネオンに照らされた海を見て思った。
(それって、古閑アカネにはめられたということか。なんだか嫌な予感がするな……)
「航志朗さん、なんでもそろっていますよ。ないものは生鮮食品だけ。ここに置いてあるものを使わせていただけるのなら、今日はお買い物の必要はないと思います」
「確かになんでもある。今日は買い物に出かけなくていいな」
安寿は不思議そうに言った。
「あの、伊藤さんか咲さんが用意してくださったんでしょうか?」
目を丸くしてから航志朗は肩を震わせて笑い出した。
「まさか。たぶん古閑夫妻に頼まれた本家の家政婦さんが用意してくれたんじゃないか。着いたばかりだからありがたいな」
「古閑夫妻?」
「ああ、先週、上海のレセプションパーティーで知り合ったんだ。顧客から日本人の親友夫婦だと紹介された」
航志朗は続けて尋ねた。
「安寿、君は『九州の古閑家』って、聞いたことがある?」
安寿は首を振って言った。
「いいえ」
「俺は名前だけは知っていたんだけど、『古閑家』は、明治時代に海外貿易で金融大資本家になったこの地方出身の一族だ。昔は私塾を開いたり、この地方の優秀な子弟に金銭援助して東京や海外の大学に進学させていたりしたんだ。特に美術の才能がある青年たちを金銭的に支えた後援者になっていた」
「パトロンってことですか?」
「そう。今現在、一族の子孫は二人の姉妹だけになって、その妹が上海で知り合った古閑アカネさんだ」
「熊本駅の地下駐車場でお話しされていたのはその方ですか?」
「ああ。古閑夫妻は東京に住んでいるんだけど、今週末、本家に里帰りされるんだ。君に会いたいって言っていた。後であいさつに行かないとな」
「はい。わかりました」
「で、その古閑姉妹に仕事を依頼されたんだ」
そこで航志朗は言葉に詰まった。
「どんなお仕事なんですか?」
「詳細はわからないが、おそらく古閑コレクションを一般公開する私立美術館設立のコンサルティングだろう」
「航志朗さんの新しいお仕事ということですね?」
「……まあな」
そう言うと、航志朗はため息をついた。
(こんなはずじゃなかったんだけどな……)
あの日、上海のレセプションパーティーで、展示された絵の前で仲良さそうに談笑していた日本人夫婦を黄静思から紹介された。「岸先生、私の愛する親友夫婦です。古閑先生と私たち夫婦は、北京の大学で知り合ったんです」と言って、静思はその日本人夫婦に向かって親しげに微笑んだ。
来週から一か月の休暇を取って安寿と過ごすことに航志朗は心底浮かれていた。帰国してからどこで安寿と過ごそうかと仕事の合間にスマートフォンで検索していた。そこで、航志朗はつい軽い気持ちで古閑アカネに訊いてしまった。
「来週から妻と夏季休暇を過ごす予定なのですが、日本国内でどこかよい場所をご存じないでしょうか? 東京から電車か車で行けるところで」
深緋の艶やかな訪問着を身にまとったアカネは、逆に航志朗に尋ねた。
「奥さまは、……海がお好きかしら?」
視線を上にして航志朗は思った。
(そういえば、安寿と海に行ったことがないな)
航志朗は正直に答えた。
「わかりません。まだふたりで海に行ったことがないので」
真っ赤に塗られた唇の口角を上げて、アカネはにっこりと笑って言った。
「では、決まりですね。私どもの別荘をお使いください、岸航志朗先生」
その時、航志朗はアカネが言った「決まり」という言葉を誤解していた。古閑家が所有しているという九州の海の近くの別荘を貸してもらうだけのつもりだった。その場でアカネが自身のスマートフォンを操作して、中にあった別荘の画像を見せてもらって、つい妄想がふくらんでしまったのだ。
(こんなところで、安寿と二人っきりで過ごせたら……)
レセプションパーティーがお開きになった後、外灘を歩いてから上海のホテルの部屋に戻るとアンから電話があった。あからさまにアンはあきれ返った口調で航志朗に言った。
「コーシ。おまえって、ホントにそういうところ、日本人なんだなあ……」
「ん? なんのことだ」
「せっかく久しぶりにアンジュとゆっくり過ごせるように、僕が気を利かせて長期休暇を取らせてやったのに、わざわざそこに仕事を入れることはないだろう。勤勉すぎるだろ、アンジュに嫌われるぞ!」
「だからアン、なんのことだ?」
「二年前からオファーが入っていた日本のコモリファミリーの案件、引き受けたんだって? どうしたんだよ、コーシ。おまえさ、ずっと日本国内の仕事は絶対にしないって言っていたじゃないか」
「はあ? なんだよ、それ……」
腕を組んだ航志朗は、窓の外の派手なネオンに照らされた海を見て思った。
(それって、古閑アカネにはめられたということか。なんだか嫌な予感がするな……)