今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第5節

 心地よい波の音に安寿は目を覚ました。部屋の中はまだ暗い。安寿は自分を守るように包む大きな存在に気づいた。後ろを振り返ると航志朗が目を閉じて眠っている。

 「航志朗さん……」

 安寿は愛おしそうに航志朗を見つめた。そして、安寿は顔を赤らめた。航志朗は何も着ていない。

 (私、昨日の夜、先に眠ってしまったんだ)

 安寿は航志朗の引きしまった胸に顔を寄せた。甘やかな航志朗の匂いがする。安寿はきつく胸をしめつけられながら思った。

 (いつかこの匂いを忘れなければならない時が来る……)

 航志朗を起こさないように安寿はゆっくりと起き上がった。静かに窓を開けてバルコニーに出る。水平線が少しずつオレンジ色に染まり、明るくなっていくのが見えた。下を見下ろすと別荘の庭から海へ降りて行く階段が見えた。ふと思い立って安寿はパジャマのままでスニーカーを履いて外へ出て行き、木製の階段を降りて行った。

 「安寿……」と航志朗はつぶやいて目を開けた。部屋の中は薄暗い。航志朗はベッドに安寿がいないことに気づいてあわてて飛び起きた。バスタオルを巻き直して階段を駆け下りたが、LDKに安寿の姿はない。

 (いったい、どこへ行ったんだ)

 玄関に行くと、安寿のスニーカーがなかった。

 (もしかして、一人で海へ行ったのか)

 急いでスーツケースからTシャツとショートパンツを引っぱり出して着替えると別荘の庭に出て、航志朗は階段を駆け足で下りて行った。

 安寿は弓型の入り江に広がる砂浜にたどり着いた。誰もいない。まだ薄暗い辺りを見回すが、この階段しかこの場所には降りられないようだ。(きっと、あの別荘のプライベートビーチなのかもしれない)と安寿は思った。

 安寿はスニーカーを脱いで裸足になった。パジャマのズボンの裾をまくり上げて波打ち際に行き、まだ冷たい透き通った海水に足を踏み入れた。波は安寿の足を優しくなでる。はてしなく広がる多島海の風景は「黒川家の襖絵を完璧に描かなくては」とずっと固く自分を縛っていた心を解放してくれる。

 安寿は軽やかな気持ちになってきた。だんだん明るくなっていく空と水平線をしばらく眺めていると、少し先の海の底に白い小石が沈んでいることに気づいた。心惹かれる真珠のような白さだ。安寿は膝の上まで海に入って手を伸ばした。白い小石をつかんだと同時にいきなり大きな波がやって来て、安寿は足を取られて転倒した。大きな音を立てて安寿は全身を海水に濡らした。

 「安寿ー!」

 濡れた髪をかき上げて安寿は階段の方を見た。航志朗が走ってやって来るのが見えた。びしょ濡れになった安寿はあわてて立ち上がった。航志朗はそのまま海に入って来て、安寿の前に立って言った。

 「安寿、朝っぱらから海水浴か? ……パジャマ姿で」

 安寿は恥ずかしそうに航志朗にはにかんだ。

 その瞬間、入り江に差し込んできた朝日が安寿を後ろから照らした。航志朗はまぶしそうに安寿を見つめた。濡れた安寿のパジャマはその素肌にはりつき、安寿の身体の輪郭を浮かび上がらせている。

 突然、航志朗は安寿をきつく抱きしめて唇を重ねた。安寿は航志朗の首に腕を回して夢中でしがみついた。その時、握っていた白い小石を海の中に落としたことに安寿はまったく気がつかなかった。息を荒くして身体を密着させながら、ふたりは波打ち際に倒れ込んだ。それに構わずふたりは熱く口づけし合った。満ちてきた波がふたりを覆う。寄せては返す波の感触は身体の奥をうずかせる。航志朗は安寿の耳に甘くささやいた。

 「安寿、ベッドに戻ろう……」

 安寿は恥ずかしそうに微笑むと急に声をあげた。

 「あっ、落としちゃった!」

 航志朗から身体を離して安寿は海の中に目を凝らした。

 「……ない」

 「何がないんだ、安寿?」

 「白い小石です。さっきまで握っていたのに」

 右の手のひらを見つめて安寿は残念そうな顔をした。

 だんだん日射しが強くなってきた。安寿の白い腕を陽の光が照らす。

 「たいへん、日焼けしちゃう!」

 安寿はスニーカーを履くと航志朗の手を引っぱって走り出した。走りながら安寿は楽しそうに航志朗を見上げて言った。

 「明日の朝は水着を着ていきます。夜明け前の暗いうちなら、日焼けの心配をしないで海で泳げるでしょう?」

 「まあそうだけど、海水が冷たいんじゃないのか。それはそうとして、安寿、一人で海に行くな。俺と一緒じゃないとだめだ」

 「どうしてですか?」

 安寿は理由がわからずに立ち止まった。

 (私、子どもじゃないのに……)

 航志朗はちらっとずぶ濡れの安寿の姿を見下ろした。安寿の胸が透けて見える。胸をどきっとさせると同時に心配でたまらなくなる。

 (こんな姿を他の男に見られたら……)

 思わず航志朗は強い口調で怒鳴った。

 「水着姿の女性が海で一人でいるなんて危ないだろ! まったく、いつも君は無防備すぎる!」

 安寿は仏頂面をして言いわけした。

 「だって、航志朗さん、ぐっすり眠っていたから」

 また航志朗は怒鳴った。

 「いいから、俺が眠っていたら起こせ! いいな、安寿!」

 両手で口を覆った安寿はうつむいて肩を震わせた。航志朗は顔をしかめた。

 (まずい。強く言い過ぎたか……)

 恐る恐る航志朗は安寿の顔をのぞき込んで謝った。

 「ごめん、安寿。大声で怒鳴ったりして。……ん?」

 推測とはまったく正反対だった。安寿はくすくす笑っていた。航志朗はあぜんとした。

 「安寿?」

 さも嬉しそうに航志朗を見上げて安寿は言った。

 「私、こんなに他人(ひと)から怒られたの初めてです。航志朗さんて、私のお父さんみたい」

 そう言うと、一瞬、哀しげな表情を浮かべて、安寿は遠くの沖に視線を投げた。

 「お父さん? 確かに君はまだ学生だから、俺は君の保護者でもあるけど……、いや、俺は君の夫だ!」

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