今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿はステンレス製のクッキングバットにキッチンペーパーを敷いてから、コアジをよく洗って並べた。バットは虹色に輝くつぶらな瞳のコアジでいっぱいになった。安寿はスーツケースからスケッチブックを取り出して、キッチンに立ったままコアジをスケッチし始めた。
ソファに座った航志朗は安寿を眺めていた。安寿はひとりで楽しそうだ。航志朗は立ち上がって安寿の後ろからスケッチブックをのぞき込んだ。航志朗はまた安寿を後ろから抱きしめようとしたが、安寿が描いたたくさんのコアジににらまれたような気がしてそれを押しとどめた。
航志朗は苦笑いしながら思った。
(わかってるよ。無理強いはだめだよな)
安寿は次のページをめくって、いかにも「今朝採れたてなんですよ」と自己主張している夏野菜をスケッチした。そして、ダイニングテーブルに顔彩と画筆を持って来て、ブルーベリーが入っていた丸いプラスチックケースに水を張って彩色を始めた。洗ってガラスボウルに移されたブルーベリーをつまみながら、航志朗は安寿を見つめて言った。
「安寿、日本画を描いているのか? 君が顔彩を使っているのを初めて見たよ」
その言葉に安寿はどきっとしたが、冷静さを装った。
「ええ。先日、九彩堂の千里さんのご自宅にうかがわせてもらって、容さんの描いた日本画を見せていただいたんです。その絵がとても美しかったので、私も描いてみたくなったんです」
心のなかで安寿は自分に言い聞かせた。
(私、航志朗さんにうそをついてない)
「……よう、さん?」
思わず航志朗は不機嫌な表情を浮かべた。
「九条容さんです。千里さんのお孫さんの。航志朗さん、ご存じですよね? 彼、この春から清美大の三年次に編入されたんです」
「ああ、あの容か! 懐かしいな」
「容さん、航志朗さんにお会いしたいっておっしゃっていましたよ」
「そうか。近いうちに三人で食事にでも行くか」
「それはいいですね」
「そうだ、安寿。俺が前にプレゼントした天然岩絵具は使わないのか?」
「もったいないです。習作なのにあんなに高価な絵具を使うなんて。それに……」
「それに?」
「航志朗さんが贈ってくださったんですから使えないです。なくなってしまうと悲しいから」
「安寿、画材なんて俺が君にいくらでも買ってあげるよ。忘れてないよな? 俺は君のギャラリストだろ」
「もちろん。とっても優秀なギャラリストさんですよね」
ふざけたように明るく言ったものの、自分の言葉に安寿は傷ついた。
(そう。こんな私とは、本当に住む世界が違うひと……)
画筆を置いて安寿はうつむいた。
突然「安寿、もう俺は我慢できない」と航志朗は苦しそうに低い声でもらすと、安寿をきつく抱きしめた。航志朗の手は安寿の背中をまさぐるようになでる。
安寿は航志朗の腕の中で身体をこわばらせた。
「こ、航志朗さん、やっぱり午前中からは」
「わかった。今はこれ以上、君に触れない。だけど、このままでいてほしい」
「……わかりました」
ふたりはソファに座って寄りそった。一緒に海を眺める。今日も晴天だ。ふたりの目の前にはこの世のすべての青の色彩が広がっている。安寿は航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。今の航志朗の瞳は青みがかって吸い込まれそうなほどに美しい。
航志朗は安寿の膝に頭をのせて横になった。完全に航志朗の足はソファからはみ出している。安寿は優しく航志朗の頭をなでた。気持ちよさそうに航志朗は目を閉じた。
安寿は目を閉じた航志朗の安らかな顔を見て、胸が苦しくなってきた。どうしても泣き出しそうになってしまう。
(もし、もしも二度と彼が目を開けなかったら、もう私はこの世にいられない)
安寿は愛おしそうに航志朗の頬に手を触れた。航志朗は目を開けて安寿の瞳を見つめた。ふたりは見つめ合う。時間が刻一刻と過ぎていくのを忘れて。
急に部屋の中が暗くなってきた。窓の外を見るとダークグレイの雲がわいてきて空を暗く覆い始めた。
雨が降ってきた。空気を掃き清めるような音が聞こえてくる。ふたりは立ち上がって窓辺に立った。窓を開けると、バルコニーのウッドデッキはもう濡れ色になって水たまりができている。だんだん風が強くなってきて大粒の雨が吹き込んできた。窓を閉めると航志朗は安寿の肩をそっと抱いた。しばらくふたりは海の上に降る雨を眺めていた。
航志朗が静かにつぶやいた。
「こんなにゆっくりと時間を過ごせるなんて。安寿、君と一緒に……」
安寿は何も答えない。ただ潤んだ瞳で航志朗を見上げた。航志朗は優しいまなざしで安寿を見下ろした。安寿は航志朗の身体に手を回して抱きついた。
やがて、ふたりはしっかりと手をつないで階段を上って行った。
ソファに座った航志朗は安寿を眺めていた。安寿はひとりで楽しそうだ。航志朗は立ち上がって安寿の後ろからスケッチブックをのぞき込んだ。航志朗はまた安寿を後ろから抱きしめようとしたが、安寿が描いたたくさんのコアジににらまれたような気がしてそれを押しとどめた。
航志朗は苦笑いしながら思った。
(わかってるよ。無理強いはだめだよな)
安寿は次のページをめくって、いかにも「今朝採れたてなんですよ」と自己主張している夏野菜をスケッチした。そして、ダイニングテーブルに顔彩と画筆を持って来て、ブルーベリーが入っていた丸いプラスチックケースに水を張って彩色を始めた。洗ってガラスボウルに移されたブルーベリーをつまみながら、航志朗は安寿を見つめて言った。
「安寿、日本画を描いているのか? 君が顔彩を使っているのを初めて見たよ」
その言葉に安寿はどきっとしたが、冷静さを装った。
「ええ。先日、九彩堂の千里さんのご自宅にうかがわせてもらって、容さんの描いた日本画を見せていただいたんです。その絵がとても美しかったので、私も描いてみたくなったんです」
心のなかで安寿は自分に言い聞かせた。
(私、航志朗さんにうそをついてない)
「……よう、さん?」
思わず航志朗は不機嫌な表情を浮かべた。
「九条容さんです。千里さんのお孫さんの。航志朗さん、ご存じですよね? 彼、この春から清美大の三年次に編入されたんです」
「ああ、あの容か! 懐かしいな」
「容さん、航志朗さんにお会いしたいっておっしゃっていましたよ」
「そうか。近いうちに三人で食事にでも行くか」
「それはいいですね」
「そうだ、安寿。俺が前にプレゼントした天然岩絵具は使わないのか?」
「もったいないです。習作なのにあんなに高価な絵具を使うなんて。それに……」
「それに?」
「航志朗さんが贈ってくださったんですから使えないです。なくなってしまうと悲しいから」
「安寿、画材なんて俺が君にいくらでも買ってあげるよ。忘れてないよな? 俺は君のギャラリストだろ」
「もちろん。とっても優秀なギャラリストさんですよね」
ふざけたように明るく言ったものの、自分の言葉に安寿は傷ついた。
(そう。こんな私とは、本当に住む世界が違うひと……)
画筆を置いて安寿はうつむいた。
突然「安寿、もう俺は我慢できない」と航志朗は苦しそうに低い声でもらすと、安寿をきつく抱きしめた。航志朗の手は安寿の背中をまさぐるようになでる。
安寿は航志朗の腕の中で身体をこわばらせた。
「こ、航志朗さん、やっぱり午前中からは」
「わかった。今はこれ以上、君に触れない。だけど、このままでいてほしい」
「……わかりました」
ふたりはソファに座って寄りそった。一緒に海を眺める。今日も晴天だ。ふたりの目の前にはこの世のすべての青の色彩が広がっている。安寿は航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。今の航志朗の瞳は青みがかって吸い込まれそうなほどに美しい。
航志朗は安寿の膝に頭をのせて横になった。完全に航志朗の足はソファからはみ出している。安寿は優しく航志朗の頭をなでた。気持ちよさそうに航志朗は目を閉じた。
安寿は目を閉じた航志朗の安らかな顔を見て、胸が苦しくなってきた。どうしても泣き出しそうになってしまう。
(もし、もしも二度と彼が目を開けなかったら、もう私はこの世にいられない)
安寿は愛おしそうに航志朗の頬に手を触れた。航志朗は目を開けて安寿の瞳を見つめた。ふたりは見つめ合う。時間が刻一刻と過ぎていくのを忘れて。
急に部屋の中が暗くなってきた。窓の外を見るとダークグレイの雲がわいてきて空を暗く覆い始めた。
雨が降ってきた。空気を掃き清めるような音が聞こえてくる。ふたりは立ち上がって窓辺に立った。窓を開けると、バルコニーのウッドデッキはもう濡れ色になって水たまりができている。だんだん風が強くなってきて大粒の雨が吹き込んできた。窓を閉めると航志朗は安寿の肩をそっと抱いた。しばらくふたりは海の上に降る雨を眺めていた。
航志朗が静かにつぶやいた。
「こんなにゆっくりと時間を過ごせるなんて。安寿、君と一緒に……」
安寿は何も答えない。ただ潤んだ瞳で航志朗を見上げた。航志朗は優しいまなざしで安寿を見下ろした。安寿は航志朗の身体に手を回して抱きついた。
やがて、ふたりはしっかりと手をつないで階段を上って行った。