今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
よく磨き込まれた長い廊下を五嶋はそぞろに歩いて奥の部屋に向かった。森のような中庭は激しく降る大雨で灰色にけぶっている。辺りには草いきれの香りが漂う。一度深呼吸をしてから五嶋は襖に向かってひざまずくと、部屋の中に向かって呼びかけた。
「……ルリさま、五嶋です」
「おかえりなさい、衆さん。どうぞ入って」
「はい。失礼いたします」
五嶋は音を立てずに襖を開けた。和室の中には、藍色の浴衣姿の女が文机の前で正座をしていた。文机には和紙が広げられている。和紙の上には可憐な花々がしとやかに咲きはじめている。女は手に持った画筆をそっと置くと、うつむいた五嶋の姿を穏やかに見つめてから言った。
「彼女に会って来たのね」
うつむいたまま五嶋はうなずいた。
「……彼に似ていた?」
五嶋は沈黙したままだ。
「そう。私もごあいさつにうかがうとしましょう、……安寿さんに」
安寿は目を覚ました。安寿は航志朗の腕の中にいる。汗がひいた航志朗のしっとりとした肌はひんやりと冷たい。ゆっくりと身体を動かして、目を閉じた航志朗の顔を見つめる。目の前の光景にまったく現実味がない。今、何時なのか全然わからない。とめどない時間の流れから外れているような不思議な感覚におちいる。でも、窓から明るい陽の光が差し込んでいるから、たぶん昼間なのだろう。窓の外が水滴を反射してきらきらと輝いている。
(雨があがったんだ……)
安寿は起き上がった。下を向いて裸でいる自分を確認すると、安寿は赤くなって両腕で胸と脚の間を押さえた。
先程は急な豪雨に見舞われた。一気に視界が暗くなって海がまったく見えなくなった。激しい雨音に身を奮い立たせるように、ベッドの上で航志朗は荒々しく安寿のすべてを求めてきた。耳の奥がとろけてしまうほどに甘い声で名前を呼ばれ、「愛している」と自分を見失ってしまうほどに切実に訴えられた。たぶん、何度も航志朗から与えられた愉悦のなかで声をあげていたのかもしれない。でも、それは雨音にかき消された。あとかたもなく。
(今日、私、何回シャワーを浴びているんだろう……)と思いながら、安寿は熱い湯で身体を流した。安寿は着替えると冷蔵庫の中からミネラルウォーターのボトルを取り出して、グラスに二杯冷たい水を飲んだ。時計を見ると、午後一時を過ぎている。キッチンに戻ってパントリーを開けて安寿は遅い昼食のメニューを考えた。
(軽くおそうめんがいいかな。航志朗さんが起きてきたら茹ではじめたほうがいいよね、麺がのびちゃうから)
安寿はブルーベリーをつまんで口に入れてからまた冷たい水を飲んだ。テーブルの上に置いてある今朝描いた夏野菜に塗った顔彩はとっくに乾いていた。安寿は白い顔彩を直接右手の人さし指につけて、真っ赤なトマトに光沢をつけた。安寿はスケッチブックをめくって新しいページを開くと、バルコニーに行って外を眺めた。周辺を見回して習作として描くモチーフを探す。ふと見下ろすと庭から森へ入る小道を見つけた。そこには岸家の裏の森の小道を思い起こさせる陰影があった。その影に引き寄せられるように、安寿は麦わら帽子を被ってまた外に出て行った。
「……ルリさま、五嶋です」
「おかえりなさい、衆さん。どうぞ入って」
「はい。失礼いたします」
五嶋は音を立てずに襖を開けた。和室の中には、藍色の浴衣姿の女が文机の前で正座をしていた。文机には和紙が広げられている。和紙の上には可憐な花々がしとやかに咲きはじめている。女は手に持った画筆をそっと置くと、うつむいた五嶋の姿を穏やかに見つめてから言った。
「彼女に会って来たのね」
うつむいたまま五嶋はうなずいた。
「……彼に似ていた?」
五嶋は沈黙したままだ。
「そう。私もごあいさつにうかがうとしましょう、……安寿さんに」
安寿は目を覚ました。安寿は航志朗の腕の中にいる。汗がひいた航志朗のしっとりとした肌はひんやりと冷たい。ゆっくりと身体を動かして、目を閉じた航志朗の顔を見つめる。目の前の光景にまったく現実味がない。今、何時なのか全然わからない。とめどない時間の流れから外れているような不思議な感覚におちいる。でも、窓から明るい陽の光が差し込んでいるから、たぶん昼間なのだろう。窓の外が水滴を反射してきらきらと輝いている。
(雨があがったんだ……)
安寿は起き上がった。下を向いて裸でいる自分を確認すると、安寿は赤くなって両腕で胸と脚の間を押さえた。
先程は急な豪雨に見舞われた。一気に視界が暗くなって海がまったく見えなくなった。激しい雨音に身を奮い立たせるように、ベッドの上で航志朗は荒々しく安寿のすべてを求めてきた。耳の奥がとろけてしまうほどに甘い声で名前を呼ばれ、「愛している」と自分を見失ってしまうほどに切実に訴えられた。たぶん、何度も航志朗から与えられた愉悦のなかで声をあげていたのかもしれない。でも、それは雨音にかき消された。あとかたもなく。
(今日、私、何回シャワーを浴びているんだろう……)と思いながら、安寿は熱い湯で身体を流した。安寿は着替えると冷蔵庫の中からミネラルウォーターのボトルを取り出して、グラスに二杯冷たい水を飲んだ。時計を見ると、午後一時を過ぎている。キッチンに戻ってパントリーを開けて安寿は遅い昼食のメニューを考えた。
(軽くおそうめんがいいかな。航志朗さんが起きてきたら茹ではじめたほうがいいよね、麺がのびちゃうから)
安寿はブルーベリーをつまんで口に入れてからまた冷たい水を飲んだ。テーブルの上に置いてある今朝描いた夏野菜に塗った顔彩はとっくに乾いていた。安寿は白い顔彩を直接右手の人さし指につけて、真っ赤なトマトに光沢をつけた。安寿はスケッチブックをめくって新しいページを開くと、バルコニーに行って外を眺めた。周辺を見回して習作として描くモチーフを探す。ふと見下ろすと庭から森へ入る小道を見つけた。そこには岸家の裏の森の小道を思い起こさせる陰影があった。その影に引き寄せられるように、安寿は麦わら帽子を被ってまた外に出て行った。