今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 雨に濡れた庭の芝生は水分を含んでふかふかしていた。森の中へ入る小道に安寿は一歩踏み出した。とっさに振り返って、安寿は別荘の二階の窓を見た。

 (ちょっと散歩するだけだから、ひとりでも大丈夫だよね)

 そう自分に言いわけをしてから歩き出した。それは細い道だった。だんだん上へと登って行く。後ろを振り返ると、もう別荘もその庭も見えなくなっていた。昼間でも森の中は薄暗い。急に恐れを感じて立ち止まった安寿はすぐに引き返そうとした。

 その時、木漏れ日が注いだ丸い陽だまりに、小さな青い花がたくさん咲いていることに気がついた。安寿は一瞬でその花に魅了された。小道から外れてそばに近寄って見下ろした。青い花びらの中心は濃い紅色で、五つの黄色いおしべが何かを安寿に伝えているかのように口を開いている。

 (なんて美しい青色なの……)

 その場に安寿はしゃがんで夢中になって見入った。

 「あらあら、可愛いおしりが濡れてしまっているわよ」

 いきなり背後から声をかけられて、あわてて安寿は立ち上がった。振り返ってみると、藍色の浴衣を着た女が立っている。白髪まじりの長い髪を一つに結んで右肩にかけている。その女は安寿を静かに見つめている。思わず安寿も見つめ返した。その女の瞳の奥にいつかどこかで見た懐かしい光が宿っているような気がした。

 (なんだろう、この感じ)

 安寿はその感覚が意味するところがまったくわからなかった。

 その女は小さな青い花を見て言った。

 「珍しいわね。その花が、今、咲いているなんて」

 「……そうなんですか?」

 「ええ。普通は三月から五月に咲く花よ。きっとあなたに見てもらいたくて、さっきの大雨のなかで一生懸命に咲いたのね」

 (……不思議なひと)と安寿は心のなかで思った。

 女が安寿の右手を手に取った。安寿の人さし指には白い顔彩がついている。

 「あなた、絵を描いているの? では、これを描いてみたらどうかしら」

 女は小さな青い花を一輪つんで、安寿の右手の手のひらにそっとのせた。

 「あの、いいんですか?」

 申しわけなさそうに安寿が言った。

 「もちろんいいわよ。だって、私の庭の花だから」

 そう言って女は安寿に背を向けると、森の小道を奥へと歩き出した。

 その藍色の背中に安寿はあわてて尋ねた。

 「あの、教えてください。この花の名前は?」

 振り返って、女は微笑みながら言った。

 「……ルリハコベよ」

 藍色の背中はすぐに見えなくなった。

 ぼんやりと安寿は手のひらの上の青い花を見つめながら、別荘の庭に姿を現した。

 「安寿ー!」

 航志朗が自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。航志朗は駆け寄って来て安寿を強く抱きしめた。

 「まったく君ってひとは! どこにもいないから本当に心配した。……ん? どうしたんだ」

 「いただいたんです」

 「何を?」

 「これです……」

 安寿は右の手のひらを航志朗に見せた。

 「きれいな青い花だな。で、誰に?」

 「わかりません」

 「は? まさか男にか!」

 「いいえ、女の人です。藍色の浴衣を着た」

 航志朗はいぶかしげに安寿を見つめた。その視線に気づかずに安寿は尋ねた。

 「航志朗さん、この花の色って何色でしょう?」

 「そうだな、紫がかった鮮やかな青色……、ラピスラズリの色みたいだな」

 「わかった! 瑠璃(るり)色ですね」

 安寿は航志朗を置いて走り出して行った。あわてて航志朗が安寿のあとを追った。航志朗は安寿の後ろ姿を見て気がついた。

 (おしりが濡れているじゃないか。何かに夢中になってどこかにしゃがんだのか、あの時(・・・)みたいに)

 航志朗は大きな声で怒鳴った。

 「安寿、着替えろよ! パンツまで濡れているんじゃないのか」

 安寿は急に立ち止まって、左手で尻を押さえた。

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