今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と航志朗は地元のスーパーマーケットに出かけて、炭酸水のケースと数種類のチョコレートを購入した。他に安寿はスケッチブックを買い足した。その表紙には子どもが好むような可愛らしいキャラクターがプリントされてあったが、それしかなかったのだから仕方がない。

 曇り空の海岸線を南に走ると、のんびりとした漁村の集落にゴシック様式の古い教会が建っていた。車を停めてふたりはその教会を訪れた。中には入らずにエントランスから遠目に祭壇を眺めた。誰もいない真っ白な空間には畳が敷かれていた。なんともいえない包み込まれるような雰囲気に安寿は心が和んだ。

 航志朗がかがんで安寿にささやいた。

 「安寿、二人きりで結婚式を挙げよう。俺は君の花嫁姿が見てみたい」

 その言葉に安寿は目を伏せた。何も安寿は答えられなかった。

 ふと安寿が顔を上げると、教会の敷地内の日なたにちょこんと座って前足をなめている白い猫の姿が目に入った。安寿は岸家の裏の森で会った子猫のことを思い出した。

 「航志朗さん。私、岸家の裏の森の中で白い子猫に会ったんですよ。はじめは茶色だったんですけれど、洗ってあげたら白くなりました。私、その子猫に名前を付けたんです。今度また会った時に名前を呼べるように」

 唐突な安寿の話に何がなんだかわからないが、いちおう航志朗は尋ねた。

 「どんな名前?」

 「ニケです」

 「サモトラケの『ニケ』?」

 「そう!」

 安寿は即答した航志朗に大いに感心した。

 遠い目をして航志朗がなにげなく言った。

 「子どもの頃、ルーヴルで見たな。とても美しくて心を揺り動かされた。大きな翼を持った彼女は、あの日、突然、俺の前に降り立った。そして、いつか俺の前から飛び去って行ってしまいそうな……」

 そこまで言うと、急に航志朗は言葉を詰まらせた。

 (そう、まさに安寿みたいだ。あの女神は)

 心なしか航志朗は青ざめて安寿の手を握りしめた。

 (やっと彼女と愛し合えるようになって、あのことを考えないように俺は目をつむっていた。あの契約結婚の離婚の条件が満たされたら、いったい俺たちはどうなるんだ……)

 「航志朗さん?」

 安寿は心配そうに航志朗を見つめた。

 大きな不安に絡めとられた航志朗は安寿の手を強く引いて、車の助手席に安寿を押し込めた。航志朗は運転席に座ってドアの施錠をすると大きく息を吸った。車の外にぽつぽつと雨が降ってきた。ふたりは黙ってその音に耳をすました。教会のファサードのコンクリートの壁面に雨水が染み込んでいく。雨に濡れた灰色の教会はすべてを受け入れるようにひっそりとたたずんでいる。沈黙したふたりは静かな時間に身を置いて、「このままずっと一緒にいたい」と祈るような気持ちになる。どちらからともなく固く手を握り合って切実に互いの存在を求めた。やがて、航志朗が言った。

 「安寿、帰ろうか」

 航志朗をそっと見つめてから、安寿はうなずいた。

 週末までの数日間、日の出前に安寿と航志朗は水着に着替えて海水浴をした。それから一日中、安寿は顔彩を使ってスケッチブックに絵を描いていた。隣に座った航志朗は頬杖をついて安寿を静かに見守っていたが、ときどき気持ちよさそうに居眠りをしていた。お腹が空くと一緒に料理をして食事をとった。夜は九時には眠ってしまった。まだ慣れない匂いがするベッドの上で抱き合いながら。

 古閑家の晩餐会が開かれる前日の朝、海から帰ってシャワーを浴びて着替えた安寿はスーツケースの中身を見て考え込んでいた。

 (明日の晩餐会に何を着て行けばいいの)

 なぜか航志朗からは「それについては、もう少し待ってて」と言われている。安寿は不思議に思った。

 (いったい何を待つんだろう……)

 その日の午後にそれが届いた。昼食の後片づけをしていると航志朗のスマートフォンに連絡があった。最寄りの郵便局の配達員からだった。航志朗は安寿に「上海から国際郵便が届いた。ちょっと門まで受け取りに行ってくる」と言って外に出て行った。

 (上海から?)

 安寿は首をかしげながらダイニングテーブルをふきんで拭いた。

 やがて、航志朗が大きな箱を抱えて戻って来た。真っ赤な包装紙には繁体字の古めかしい漢字が印刷されている。目を細めた航志朗は安寿に箱を手渡した。安寿は航志朗の顔を首をかしげて見つめた。

 「上海の土産だ。開けてごらん、安寿」

 航志朗に言われるがままにゆっくりと包装紙をはがして安寿は箱を開けた。アイボリーの不織布に何かが包まれている。安寿が航志朗を見上げると、航志朗はにっこり笑ってうなずいた。ゆっくりと安寿は不織布を開いた。中からダークネイビーの上品な光沢のあるドレスが出てきた。安寿はドレスの両肩を丁寧に持ち上げた。シルクベルベットで仕立てられたチャイナカラーのロングドレスだ。胸元と両腕は総レースで透けている。

 「きれい……」

 安寿はうっとりとそのドレスを見つめた。

 「気に入った? 上海の顧客に紹介してもらった老舗の仕立て屋でオーダーしたんだ。顧客の黄さんが君のために熱心に選んでくれた。彼女は世話になったお礼だと言ってドレスの代金を支払ってくれた」

 「ありがとうございます……」

 「グッドタイミングだな。それを着て明日の晩餐会に行けるだろ」

 頬を染めて安寿は小さくうなずいた。

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