今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
一方、航志朗は忙しく世界中を飛び回っていた。シンガポールでアン・リーのベンチャーキャピタルのCOOとして精力的に仕事をこなしながら、合間を縫ってイギリスの大学院に通い、アート・マネジメントの博士学位を取得しようとしている。安寿を彼女の高校まで送ってから十か月の間に航志朗は二回帰国し、華鶴から岸の素描画を受け取っていた。結局二回とも安寿に会いに行く機会はなかったが、安寿が描かれた絵と共に過ごすひとときに航志朗は安らぎを得ていた。その絵のなかの安寿は、半眼で優しい表情をしていた。顧客たちからは、慈悲の眼を持つ仏画のようだと絶賛された。
(天使から仏か。画家はどこに向かっているんだ)
顧客たちに絵を手渡すたびに航志朗は胸に激しい痛みを覚えた。そして、今すぐ安寿に会いたいと心の底から狂おしく思った。空港で東京行きの便を見かけると何度乗り換えたいと思ったことか。航志朗は空を見上げて、安寿のことを想う。
(彼女は、今、どうしているのだろう……)
安寿は十八歳の誕生日を迎えていた。その日は土曜日で、咲が安寿のためにイチゴと生クリームのデコレーションケーキを二台も焼いてくれた。一台は岸家の午後のお茶の時間のためのケーキで、もう一台はご自宅で叔母さまと召しあがれと咲は優しく目を細めて言ってくれた。岸と華鶴、伊藤夫妻に祝福され、それぞれから誕生日プレゼントまでもらってしまった安寿だったが、浮かない顔をしているのを華鶴は見逃さなかった。
「ええっ、恵ちゃん、優仁さんと別れるって、本当なの!」
先週、安寿はその恵の決心を聞いて気が動転していた。渡辺は四月いっぱいで出版社を退職し、実家の農業法人を継ぐために北海道に行くことになったというのだ。
それを聞いた安寿は恵に言いづらそうに尋ねた。
「恵ちゃん、……優仁さんと結婚しないの?」
「うん。実は今年の一月に、優ちゃんに結婚して一緒に北海道に行こうって言われたけれど、結婚なんてできるわけないでしょ。安寿を一人でここに置いて行くわけにはいかないし、だって、私、来年には四十歳になるのよ。優ちゃんは私なんかじゃなくて、もっと若い女と結婚したほうが幸せなのよ」と言って、恵は安寿の前で初めて大泣きした。その姿を見た安寿は上を向いて涙をこらえて思った。
(やっぱり、私は恵ちゃんの幸せの邪魔をしているんだ。ママが死んじゃってから、私を育てるために恵ちゃんはずっと自分を犠牲にしてきた。私は早く大人にならなくちゃ。大人になって、一人で立たなくちゃ。恵ちゃんの幸せのために、今、私がなんとかしなくちゃ!)
安寿はこぶしを握りしめた。強く、固く。
岸家の午後のティータイムが終わった。咲の手作りバースデーケーキはありがたかったが、今の安寿にはその甘い味さえおいしく感じない。華鶴はそんな安寿をさりげなく自室に誘った。華鶴の部屋に入るのは初めてだ。華鶴らしい瀟洒な調度品が並ぶ美しい部屋だった。だが、安寿にはそれらを目に入れる余裕はまったくない。
(私が、今、頼れるのは華鶴さんだけだ。華鶴さんにお願いするしかない)と安寿は思いつめて華鶴の後ろ姿を見つめた。
華鶴はエレガントな刺繍がほどこされてあるレースの白いカバーが敷いてあるベッドに腰掛けて、先程からずっと押し黙ってうつむいた安寿を自分の隣に座らせてから尋ねた。
「安寿さん。あなた、なんだか最近元気がないようね。私、あなたが心配なのよ。もしよかったら、私に話してくれない? 私は安寿さんの味方よ」
華鶴は優しく安寿の手に自分の手をそっと重ねた。その手は冷たい。安寿は意を決して顔を上げた。
(私は一人で立つの! 恵ちゃんのために!)
「華鶴さん、あの、お願いがあります。私を……、私をこの家の住み込みの使用人として雇っていただけないでしょうか?」
「えっ? 安寿さん、なんですって?」
華鶴は目を見開いて驚いた。安寿はこれまでの経緯を詳しく説明した。華鶴は口に手を当てて、しばらく沈黙した。安寿はベッドから降りて真っ赤なカーペットの上に正座して頭を下げた。
「華鶴さん、なんでもしますからお願いします! 来年の三月まででいいんです。お願いします!」
安寿は華鶴に懇願した。華鶴はため息をつき、安寿をまた自分の隣に座らせて、今度は安寿の肩を優しく抱いた。
「安寿さん、わかったわ。でも、可愛いあなたに使用人なんてさせられないわ」
安寿は自分の無力感に打ちのめされて、がっくりとうなだれた。
(やっぱり断られた。私は自分で嫌になるほど子どもだし、本当に何もできないから。私は華鶴さんになんて非常識なことを言ってしまったんだろう)
しかし、華鶴はそんな安寿に優しく微笑んで言った。
「ねぇ、安寿さん。……私の養女にならない?」
(天使から仏か。画家はどこに向かっているんだ)
顧客たちに絵を手渡すたびに航志朗は胸に激しい痛みを覚えた。そして、今すぐ安寿に会いたいと心の底から狂おしく思った。空港で東京行きの便を見かけると何度乗り換えたいと思ったことか。航志朗は空を見上げて、安寿のことを想う。
(彼女は、今、どうしているのだろう……)
安寿は十八歳の誕生日を迎えていた。その日は土曜日で、咲が安寿のためにイチゴと生クリームのデコレーションケーキを二台も焼いてくれた。一台は岸家の午後のお茶の時間のためのケーキで、もう一台はご自宅で叔母さまと召しあがれと咲は優しく目を細めて言ってくれた。岸と華鶴、伊藤夫妻に祝福され、それぞれから誕生日プレゼントまでもらってしまった安寿だったが、浮かない顔をしているのを華鶴は見逃さなかった。
「ええっ、恵ちゃん、優仁さんと別れるって、本当なの!」
先週、安寿はその恵の決心を聞いて気が動転していた。渡辺は四月いっぱいで出版社を退職し、実家の農業法人を継ぐために北海道に行くことになったというのだ。
それを聞いた安寿は恵に言いづらそうに尋ねた。
「恵ちゃん、……優仁さんと結婚しないの?」
「うん。実は今年の一月に、優ちゃんに結婚して一緒に北海道に行こうって言われたけれど、結婚なんてできるわけないでしょ。安寿を一人でここに置いて行くわけにはいかないし、だって、私、来年には四十歳になるのよ。優ちゃんは私なんかじゃなくて、もっと若い女と結婚したほうが幸せなのよ」と言って、恵は安寿の前で初めて大泣きした。その姿を見た安寿は上を向いて涙をこらえて思った。
(やっぱり、私は恵ちゃんの幸せの邪魔をしているんだ。ママが死んじゃってから、私を育てるために恵ちゃんはずっと自分を犠牲にしてきた。私は早く大人にならなくちゃ。大人になって、一人で立たなくちゃ。恵ちゃんの幸せのために、今、私がなんとかしなくちゃ!)
安寿はこぶしを握りしめた。強く、固く。
岸家の午後のティータイムが終わった。咲の手作りバースデーケーキはありがたかったが、今の安寿にはその甘い味さえおいしく感じない。華鶴はそんな安寿をさりげなく自室に誘った。華鶴の部屋に入るのは初めてだ。華鶴らしい瀟洒な調度品が並ぶ美しい部屋だった。だが、安寿にはそれらを目に入れる余裕はまったくない。
(私が、今、頼れるのは華鶴さんだけだ。華鶴さんにお願いするしかない)と安寿は思いつめて華鶴の後ろ姿を見つめた。
華鶴はエレガントな刺繍がほどこされてあるレースの白いカバーが敷いてあるベッドに腰掛けて、先程からずっと押し黙ってうつむいた安寿を自分の隣に座らせてから尋ねた。
「安寿さん。あなた、なんだか最近元気がないようね。私、あなたが心配なのよ。もしよかったら、私に話してくれない? 私は安寿さんの味方よ」
華鶴は優しく安寿の手に自分の手をそっと重ねた。その手は冷たい。安寿は意を決して顔を上げた。
(私は一人で立つの! 恵ちゃんのために!)
「華鶴さん、あの、お願いがあります。私を……、私をこの家の住み込みの使用人として雇っていただけないでしょうか?」
「えっ? 安寿さん、なんですって?」
華鶴は目を見開いて驚いた。安寿はこれまでの経緯を詳しく説明した。華鶴は口に手を当てて、しばらく沈黙した。安寿はベッドから降りて真っ赤なカーペットの上に正座して頭を下げた。
「華鶴さん、なんでもしますからお願いします! 来年の三月まででいいんです。お願いします!」
安寿は華鶴に懇願した。華鶴はため息をつき、安寿をまた自分の隣に座らせて、今度は安寿の肩を優しく抱いた。
「安寿さん、わかったわ。でも、可愛いあなたに使用人なんてさせられないわ」
安寿は自分の無力感に打ちのめされて、がっくりとうなだれた。
(やっぱり断られた。私は自分で嫌になるほど子どもだし、本当に何もできないから。私は華鶴さんになんて非常識なことを言ってしまったんだろう)
しかし、華鶴はそんな安寿に優しく微笑んで言った。
「ねぇ、安寿さん。……私の養女にならない?」