今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 宴の会食は続いた。出された料理は今まで口にしたことがない食感だった。見た目は和菓子のように美しく整えられた形状をしている。だが、口に入れると噛まずにほろっと崩れてとろける。それに離乳食か介護食を連想させる薄味だ。招待客が高齢者ばかりだからなのだろう。

 ふと安寿は自分を見つめる視線に気づいた。顔を上げるとルリと目が合った。あわてて安寿はルリに会釈した。ルリは安寿に優しく微笑みかけてきた。直感で安寿は感じた。

 (なんだかとても哀しそうな瞳をされている。『最後の晩餐』だから?)

 もの静かな晩餐会がお開きになった。招待客たちはそれぞれルリとアカネと手を握り合ってあいさつをしてから帰途についた。古閑は中村の車椅子を押して行った。その後からアカネと五嶋は自家用車やハイヤーが並んだ車寄せまで高齢の招待客たちの手を取って送って行った。広間のテーブルの席に着いている招待客は、安寿と航志朗の二人だけになった。

 「安寿、俺、ルリさんにごあいさつしてくる。君も一緒に来る?」

 安寿はうなずいた。航志朗の後に安寿は続いた。招待客たちを見送ってエントランスにたたずんでいたルリに航志朗は声をかけた。

 「初めまして、岸です。本日はご招待をいただきまして誠にありがとうございました。また別荘にも滞在させていただきまして、重ねて感謝申しあげます」

 「あなたが岸航志朗さまですね。妹から聞いております。二年前からシンガポールのあなたの会社に仕事の依頼をしていましたが、その件はもう終わりました」

 「そうですか。お役に立てませんで、大変申しわけございませんでした」

 「謝罪は不要ですよ。実は、岸さまにご相談がございます」

 「……はい?」

 「どうぞ、こちらへ」

 黙って航志朗の後ろでふたりを見守っていた安寿にルリは微笑みかけた。

 薄暗い長い廊下を奥へと進んで行き、ルリは安寿と航志朗をサロンに案内した。ふたりがソファに座ると五嶋がコーヒーを運んで来た。五嶋はふたりの前にコーヒーを置きながら言った。

 「夜も更けて参りましたので、デカフェでございます」

 航志朗は安寿の顔を見た。「他の飲みものを頼もうか?」と航志朗の顔は言っている。安寿は小さく首を振った。目を伏せてルリはコーヒーをひと口飲むと話し出した。

 「先程、中村さまがおっしゃられたことはお耳にされましたか?」

 航志朗はうなずいて言った。

 「はい。古閑家が代々所蔵されてきた美術品をそれぞれの作家の元へ返還されたということですね」

 「ええ、おっしゃるとおりです。私たち姉妹では、もはや当家の膨大な数の美術品を維持できないのです。ご存じのとおり、古閑家には私たちしかおりません。私は結婚しておりませんし、妹夫婦には子どもがおりませんので」

 遠い目をしてルリは続けて言った。

 「とてもとても長い時間がかかりました。遠いところではブラジルまで五嶋が赴いて、画家のご子孫にお渡しいたしました」

 ルリのかたわらに控えた五嶋は物静かにうなずいた。

 「大変僭越ではございますが、黄静思さんのように私設美術館を設営したり、または美術館を運営する財団を設立して、一般公開する方法もあったかと思われますが」と遠慮がちに航志朗が述べた。

 「もちろん考えました。ですが、私はもう終わりにしたかったのです。生まれながらに私たちが背負ったすべてを手放したかった。一族のしがらみから自由になるために」

 「……自由、ですか」

 膝の上で握りしめた両手を航志朗は見つめた。静かにふたりの会話に耳を傾けていた安寿は航志朗の手に目を落とした。

 「岸さま、ひとつだけご相談があるのです。それは最後まで残った作品のことです」

 「最後まで残った作品、ですか?」

 「ええ。私たちの兄の作品です。兄と申しましても、私たちとは血の繋がりがない兄です。彼は古閑家の養子でした。その兄の作品をどうしたらよいのか考えあぐねております」

 立ち上がってルリは安寿と航志朗を蔵に案内した。五嶋が三重になった分厚い木製の蔵戸を一枚ずつ力を込めて開けた。蔵の内部はひんやりとしていた。古い石像のようなかび臭い匂いがする空気に頬が触れる。安寿は思わず航志朗に身を寄せた。古めかしいランプをルリが灯すと、安寿は「あっ」と声をあげた。そこには水墨画のような白と黒の世界が広がっていた。よく見るとそれらはキャンバスの上に描かれた油彩画だった。粛々とルリが言った。

 「私たちの兄の古閑康生(こもりやすき)の作品です」

 また安寿の背筋に何かが走った。首の後ろがひやっとする。

 眉をひそめて航志朗は思った。

 (古閑康生? 初めて聞く名前だ。だが、この作品、どこかで見たことがあるような……)

 ルリは航志朗の思いを見透かしたように油彩画を一枚手に持って、その右下を指さして静かに言った。

 「兄は雅号を持っておりました。アルファベットで『KOSEI TSUJI』という」

 その言葉に驚愕した航志朗は、思わず目を大きく見開いて大声を出してしまった。

 「あのコーセイ・ツジですか!」

 蔵の中に航志朗の声が反響した。

 「ええ。短い間でしたが、兄はニューヨークで絵を描いておりました」

 安寿は航志朗とルリのやりとりを黙って見守っていた。

 (確か「コーセイ・ツジ」って、おととしの夏に航志朗さんと長野の近現代美術館で見たあの作品の画家だ……)

 「『ツジ』は、兄の実母の姓です。身内の醜聞をさらすことになって心苦しいのですが、兄の実母は父の愛人だったという噂も耳にしております。その真相は結局のところわからずじまいでしたが」

 思い余ったように航志朗は尋ねた。

 「古閑康生さんは、今、どちらに?」

 つらそうにルリは目を伏せた。

 「……亡くなりました。十年前の夏に」

 「そうですか……」

 影をなくしてしまったようなルリの姿を安寿は見つめた。安寿はふと岸を思い出した。そして、ルリが手に持っている油彩画に目を落とした。心の奥底から強く引き寄せられて、安寿は古閑康生の作品を見つめた。

 (なんて凄まじい絵なの……)

 古閑康生の絵への強烈な情熱を感じる。岸の絵が「静」なら、古閑の絵は「動」だ。ふたりの画家の絵はまさに対照的だ。油彩画から感じるあまりある熱量に安寿は酔いが回ったかのように頭がくらくらしてきた。航志朗は黙り込んだ安寿を心配そうに見下ろした。

 静かにルリは安寿のゆらゆらと揺れる瞳を見つめた。その時、わずかにルリの両目の奥が潤んだが、安寿も航志朗もそれに気づかなかった。

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