今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
ふいに子どもたちの歓声が聞こえてきた。声がした方向を見下ろすと、森の小道から出て来た十数人の帽子を被った子どもたちが、画板を抱えて海へと続く階段を下りて行った。おそらく全員が小学生だ。がらがらと子どもたちが斜め掛けにした水筒の中の氷が鳴る音がする。その一番後ろから黒いワンピースを着たルリがやって来た。ルリは安寿に気づくとバルコニーの下に来て声をかけた。
「安寿さん、昨夜はありがとうございました。突然ごめんなさいね。実は、私、夏の絵画教室を開いていて、今日は子どもたちの夏休みの宿題のお手伝いをしているんです」
ルリは安寿に品よく会釈すると子どもたちの後に続いた。
「どうした、安寿」
器を片づけた航志朗が炭酸水を飲みながらバルコニーに出て来た。
突然、安寿が言い出した。
「私、行ってきます」
「どこへ?」
「海です!」
安寿は麦わら帽子と白いコットンカーディガンをつかむと部屋を走って出て行った。
一人残された航志朗は首をかしげると、あわてて大声で言った。
「待て、安寿! 俺も行く」
麦わら帽子を被ってカーディガンの袖に腕を通しながら安寿は海への階段を下りて行った。入り江に着くと、子どもたちが思い思いの場所に座って画板にはさんだ画用紙に鉛筆で海の風景を描いているのが見えた。
黒い麻のレースの日傘をさして、ルリは子どもたちの絵を一枚一枚見て回っていた。ルリは何も言わない。にっこり子どもたちに微笑みかけているだけだ。額に汗を浮かべて子どもたちは熱心に鉛筆を走らせていた。ときどき思い出したように、持って来た水筒の中身を喉を鳴らして飲んでいる。その子どもたちの姿を安寿は遠くで見つめていた。
安寿の隣に航志朗がやって来た。安寿は航志朗を見上げて言った。
「みんな、楽しそうに絵を描いていますね」
「そうだな。夏休みの宿題かな」
ルリが安寿と航志朗がやって来たことに気づいて微笑みかけた。子どもたちも気づいてルリに訊いた。
「ルリ先生、あの人たち、だれ? 外国から来た人?」
「いいえ。東京からいらっしゃったのよ」
「本当? だってあの男の人、目の色が茶色いよ」
「そうね。とてもきれいな琥珀色の瞳をされているわね」
眉をひそめて安寿は航志朗を見上げた。穏やかに航志朗は安寿に微笑んだ。
ルリは安寿と航志朗のところにやって来て誘った。
「よろしかったら、子どもたちの絵をご覧ください。まだ下絵の段階ですけれど」
安寿はうなずくと一番近くに座っている年長の女の子のそばに行った。近寄るとその女の子の背中が緊張でこわばったことに安寿は気づいた。安寿はかがんで優しい声で言った。
「私も絵を描いているの。あなたの絵を見せてもらってもいい?」
しぶしぶ女の子はうなずいた。安寿は隣に座って画用紙にそっと目を落とした。おずおずと女の子は安寿の瞳をのぞき込んだ。胸をどきどきさせているのが伝わってくる。安寿は女の子と目を合わせて微笑みながら言った。
「絵を描くのが好きなのね」
女の子は不思議そうな顔をした。
「私も絵を描くのが好きだからわかる」
すると、おずおずと女の子は小さな島を指さして安寿に訴えるように言った。
「さっきからあの島がうまく描けないの。空に浮かんでいるみたいになっちゃって」
安寿は目を細めて言った。
「空に浮かんでいる島って、とっても素敵。絵のなかで楽しい物語が始まりそう!」
女の子は夢から覚めたように言った。
「ほんとに?」
安寿は力強くうなずいた。
「うん。ほんと!」
頬を赤らめて女の子はまた鉛筆を動かし始めた。下書きだというのに画用紙が黒く塗りつぶされそうな猛烈な勢いだ。その様子を息を詰めて見守っていた子どもたちが口々に大声で叫んだ。
「わたしの絵も見て!」
「ぼくの絵も見て!」
腕を組んだ航志朗は安寿の後ろ姿を見てにやっと笑った。
(さすが安寿だ。彼女自身はまったく意図していないのに、あの子どもに自由に絵を描く楽しさを自覚させた。そういえば、彼女は大学で教職を取っているみたいだったな。もしかしたら、安寿、美術教師に向いているんじゃないか。相当に型破りのとんでもない先生になりそうだけど)
航志朗の隣に立っているルリが日傘の下でつぶやいた。
「驚いたわ。彼女、外ではひとことも話さないおとなしい子なのに……」
小一時間ほど経つとルリが言った。
「みんな、そろそろ帰りましょう。日射しが強くなってきたから」
子どもたちはいっせいに「えー!」と異議を唱えたが、先に階段を上って行くルリの後に続いた。
航志朗が最後に立ち上がった子どもを見送ってから言った。
「俺たちも帰るか」
安寿はうなずいた。
別荘の庭に戻るとルリがふたりを待っていた。ルリは安寿に向かって言った。
「安寿さん。よろしかったら、私の絵画教室に来てくださらないかしら。あなたみたいな可愛らしい先生が来てくれると子どもたちが喜ぶわ」
安寿は困ったように航志朗を見上げて言った。
「あの、航志朗さん。行ってもいいですか?」
わずかに苦笑を浮かべて航志朗はうなずいた。
「君がそうしたいのなら行ってみたら。もちろん俺も一緒に行くけど」
嬉しそうな表情をして、安寿はルリに言った。
「ルリさん、ぜひうかがわせてください!」
穏やかにルリは微笑んだ。
横目で安寿を見て、航志朗はひそかにため息をついた。
(二人っきりの時間が多少短くなるけどな……)
「安寿さん、昨夜はありがとうございました。突然ごめんなさいね。実は、私、夏の絵画教室を開いていて、今日は子どもたちの夏休みの宿題のお手伝いをしているんです」
ルリは安寿に品よく会釈すると子どもたちの後に続いた。
「どうした、安寿」
器を片づけた航志朗が炭酸水を飲みながらバルコニーに出て来た。
突然、安寿が言い出した。
「私、行ってきます」
「どこへ?」
「海です!」
安寿は麦わら帽子と白いコットンカーディガンをつかむと部屋を走って出て行った。
一人残された航志朗は首をかしげると、あわてて大声で言った。
「待て、安寿! 俺も行く」
麦わら帽子を被ってカーディガンの袖に腕を通しながら安寿は海への階段を下りて行った。入り江に着くと、子どもたちが思い思いの場所に座って画板にはさんだ画用紙に鉛筆で海の風景を描いているのが見えた。
黒い麻のレースの日傘をさして、ルリは子どもたちの絵を一枚一枚見て回っていた。ルリは何も言わない。にっこり子どもたちに微笑みかけているだけだ。額に汗を浮かべて子どもたちは熱心に鉛筆を走らせていた。ときどき思い出したように、持って来た水筒の中身を喉を鳴らして飲んでいる。その子どもたちの姿を安寿は遠くで見つめていた。
安寿の隣に航志朗がやって来た。安寿は航志朗を見上げて言った。
「みんな、楽しそうに絵を描いていますね」
「そうだな。夏休みの宿題かな」
ルリが安寿と航志朗がやって来たことに気づいて微笑みかけた。子どもたちも気づいてルリに訊いた。
「ルリ先生、あの人たち、だれ? 外国から来た人?」
「いいえ。東京からいらっしゃったのよ」
「本当? だってあの男の人、目の色が茶色いよ」
「そうね。とてもきれいな琥珀色の瞳をされているわね」
眉をひそめて安寿は航志朗を見上げた。穏やかに航志朗は安寿に微笑んだ。
ルリは安寿と航志朗のところにやって来て誘った。
「よろしかったら、子どもたちの絵をご覧ください。まだ下絵の段階ですけれど」
安寿はうなずくと一番近くに座っている年長の女の子のそばに行った。近寄るとその女の子の背中が緊張でこわばったことに安寿は気づいた。安寿はかがんで優しい声で言った。
「私も絵を描いているの。あなたの絵を見せてもらってもいい?」
しぶしぶ女の子はうなずいた。安寿は隣に座って画用紙にそっと目を落とした。おずおずと女の子は安寿の瞳をのぞき込んだ。胸をどきどきさせているのが伝わってくる。安寿は女の子と目を合わせて微笑みながら言った。
「絵を描くのが好きなのね」
女の子は不思議そうな顔をした。
「私も絵を描くのが好きだからわかる」
すると、おずおずと女の子は小さな島を指さして安寿に訴えるように言った。
「さっきからあの島がうまく描けないの。空に浮かんでいるみたいになっちゃって」
安寿は目を細めて言った。
「空に浮かんでいる島って、とっても素敵。絵のなかで楽しい物語が始まりそう!」
女の子は夢から覚めたように言った。
「ほんとに?」
安寿は力強くうなずいた。
「うん。ほんと!」
頬を赤らめて女の子はまた鉛筆を動かし始めた。下書きだというのに画用紙が黒く塗りつぶされそうな猛烈な勢いだ。その様子を息を詰めて見守っていた子どもたちが口々に大声で叫んだ。
「わたしの絵も見て!」
「ぼくの絵も見て!」
腕を組んだ航志朗は安寿の後ろ姿を見てにやっと笑った。
(さすが安寿だ。彼女自身はまったく意図していないのに、あの子どもに自由に絵を描く楽しさを自覚させた。そういえば、彼女は大学で教職を取っているみたいだったな。もしかしたら、安寿、美術教師に向いているんじゃないか。相当に型破りのとんでもない先生になりそうだけど)
航志朗の隣に立っているルリが日傘の下でつぶやいた。
「驚いたわ。彼女、外ではひとことも話さないおとなしい子なのに……」
小一時間ほど経つとルリが言った。
「みんな、そろそろ帰りましょう。日射しが強くなってきたから」
子どもたちはいっせいに「えー!」と異議を唱えたが、先に階段を上って行くルリの後に続いた。
航志朗が最後に立ち上がった子どもを見送ってから言った。
「俺たちも帰るか」
安寿はうなずいた。
別荘の庭に戻るとルリがふたりを待っていた。ルリは安寿に向かって言った。
「安寿さん。よろしかったら、私の絵画教室に来てくださらないかしら。あなたみたいな可愛らしい先生が来てくれると子どもたちが喜ぶわ」
安寿は困ったように航志朗を見上げて言った。
「あの、航志朗さん。行ってもいいですか?」
わずかに苦笑を浮かべて航志朗はうなずいた。
「君がそうしたいのなら行ってみたら。もちろん俺も一緒に行くけど」
嬉しそうな表情をして、安寿はルリに言った。
「ルリさん、ぜひうかがわせてください!」
穏やかにルリは微笑んだ。
横目で安寿を見て、航志朗はひそかにため息をついた。
(二人っきりの時間が多少短くなるけどな……)