今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
次の日の午後、安寿と航志朗は古閑邸に向かった。森の中の小道を登ってアイアンの門を通り屋敷のエントランスの前に着くと、玄関から出て来た古閑一誠と会った。古閑は大きなスーツケースを引いていた。後から黒いタイトワンピースを着たアカネが出て来て、ふたりに声をかけた。
「岸さん、安寿さん。ご休暇中にもかかわらず、晩餐会だけではなく姉の絵画教室にまでいらっしゃってくださって、本当にありがとうございます。……おそらく最後の絵画教室になると思いますが」
一瞬、アカネはうつむいた。
「私どもはこれで失礼いたします。ぜひ東京でもお会いしましょう。一誠さんは大学で安寿さんにお会いできるわね?」
「そうだね。安寿さん、清美大でまたお会いしましょう」
「はい。ありがとうございます」
安寿と航志朗は古閑夫妻に丁寧にお辞儀をした。
アカネは顔を上げた安寿をじっと見つめると、ふと思い出したように尋ねた。
「ねえ、安寿さん。あなた、……初恋のひとのことって、覚えていらっしゃる?」
「えっ?」
急に安寿は頬を赤く染めて航志朗を見上げた。胸をどきっとさせて航志朗は安寿の顔を探るように見つめた。安寿は航志朗と目を合わせて気まずい表情を浮かべた。
あきれた顔をした古閑が安寿を擁護するように言った。
「アカネ、彼女のご主人の前でなんて失礼なことを訊くんだ。安寿さんが困っていらっしゃるだろう」
「あらいやだ、私ったら! 安寿さん、ごめんなさい。なんとなく訊きたくなってしまって……」
ばつの悪い表情でアカネは肩をすくめた。
一度アカネは屋敷を見上げてから、ため息まじりに言った。
「姉はね、ずっと初恋のひとが忘れられなかったの。父がどんなに条件のよいお見合い相手を用意しても、まったく見向きもしなかった。たぶん今もあのひとのことを想い続けているわ。もうかなわぬ恋なのに」
やるせない様子でアカネはライトブラウンに染めた髪をかき上げた。
腕を組んだアカネと古閑の後ろ姿を見送ると、重厚な玄関ドアが開いて五嶋が出て来た。五嶋はふたりに微笑みながら言った。
「岸さま、安寿さま、いらっしゃいませ。ちょうど絵画教室の子どもたちのおやつの時間なんです。ご一緒にいかがですか」
安寿と航志朗が玄関ホールに入ると、さまざまなサイズの色とりどりの靴がたくさん並んでいた。
古閑邸の中は甘い香りが漂っていた。廊下の奥からルリと給仕係が揚げたてのドーナツを山のようにかごにのせて運んで来た。
『最後の晩餐』が開かれた広間に入ると、大理石のテーブルの上に子どもたちが画用紙を広げて水彩絵具を塗っていた。細長いテーブルの上には一列に青い海が並んでいる。子どもたちがそれぞれに持つ自らの目で感じだ青だ。一枚も同じ青を使っていない。
五嶋がコンソールテーブルの上に並んだグラスにフレッシュオレンジジュースを注ぎ始めた。安寿と航志朗は五嶋を手伝って子どもたちにウエットティッシュを配った。歓声をあげて子どもたちは熱々のドーナツにかじりついた。それを見た安寿とルリは顔を見合わせて微笑んだ。
「岸さまも安寿さまも、よろしかったらどうぞ」と五嶋に勧められてふたりもドーナツをかじった。ほどよくシナモンシュガーが効いていて甘さ控えめの家庭的な味だ。子どもたちはドーナツを何個もお腹に収めると、すぐにまた絵の続きを描き出した。
安寿も航志朗も何も言わずに子どもたちの背後から絵を見て回った。さまざまなアングルで自由に描かれたとても素直な絵だ。安寿も絵を描きたくなって身体がうずうずしてきた。
広間のかたすみにはラグが敷いてあって、そこには三人のさらに幼い子どもたちがカラフルなブロックで遊んでいた。絵を描いている小学生たちの弟妹だ。そのうちの一番小さな男の子が大声で泣き出した。すぐに安寿は駆け寄って行き、その男の子に尋ねた。
「あなたのお兄ちゃんかお姉ちゃんはどこにいるの?」
男の子は、安寿が海辺で絵を見せてもらった女の子を指さした。女の子は絵を描くことに夢中になっていて小さな弟が泣いていることに気がつかない。安寿は「お姉ちゃんは、今、絵を描いているから、私と遊ぼうね」と声をかけたが、男の子は不満げな表情を浮かべて両目にはまた涙がたまってきた。安寿は困り果てて口をへの字に曲げた。
その時、突然、男の子は安寿の背より高い位置に抱き上げられた。「あっ」と安寿が声をあげて見上げると、軽々と航志朗が男の子を高く抱き上げて言った。
「お兄さんとブロックで遊ぼうか」
航志朗は驚いて泣き止んだ男の子をラグの上に降ろすと、自ら緑色と黄緑色のブロックを手早く組み立て始めた。恐竜か怪獣の姿が形作られていく。すっかり泣くことを忘れた男の子は航志朗の手元を夢中になって見つめた。他の二人の子どももぽかんと口を開けて航志朗を見た。手を動かしながら航志朗は安寿に得意げな視線を送ってきた。
内心で安寿は思った。
(……お兄さん?)
「岸さん、安寿さん。ご休暇中にもかかわらず、晩餐会だけではなく姉の絵画教室にまでいらっしゃってくださって、本当にありがとうございます。……おそらく最後の絵画教室になると思いますが」
一瞬、アカネはうつむいた。
「私どもはこれで失礼いたします。ぜひ東京でもお会いしましょう。一誠さんは大学で安寿さんにお会いできるわね?」
「そうだね。安寿さん、清美大でまたお会いしましょう」
「はい。ありがとうございます」
安寿と航志朗は古閑夫妻に丁寧にお辞儀をした。
アカネは顔を上げた安寿をじっと見つめると、ふと思い出したように尋ねた。
「ねえ、安寿さん。あなた、……初恋のひとのことって、覚えていらっしゃる?」
「えっ?」
急に安寿は頬を赤く染めて航志朗を見上げた。胸をどきっとさせて航志朗は安寿の顔を探るように見つめた。安寿は航志朗と目を合わせて気まずい表情を浮かべた。
あきれた顔をした古閑が安寿を擁護するように言った。
「アカネ、彼女のご主人の前でなんて失礼なことを訊くんだ。安寿さんが困っていらっしゃるだろう」
「あらいやだ、私ったら! 安寿さん、ごめんなさい。なんとなく訊きたくなってしまって……」
ばつの悪い表情でアカネは肩をすくめた。
一度アカネは屋敷を見上げてから、ため息まじりに言った。
「姉はね、ずっと初恋のひとが忘れられなかったの。父がどんなに条件のよいお見合い相手を用意しても、まったく見向きもしなかった。たぶん今もあのひとのことを想い続けているわ。もうかなわぬ恋なのに」
やるせない様子でアカネはライトブラウンに染めた髪をかき上げた。
腕を組んだアカネと古閑の後ろ姿を見送ると、重厚な玄関ドアが開いて五嶋が出て来た。五嶋はふたりに微笑みながら言った。
「岸さま、安寿さま、いらっしゃいませ。ちょうど絵画教室の子どもたちのおやつの時間なんです。ご一緒にいかがですか」
安寿と航志朗が玄関ホールに入ると、さまざまなサイズの色とりどりの靴がたくさん並んでいた。
古閑邸の中は甘い香りが漂っていた。廊下の奥からルリと給仕係が揚げたてのドーナツを山のようにかごにのせて運んで来た。
『最後の晩餐』が開かれた広間に入ると、大理石のテーブルの上に子どもたちが画用紙を広げて水彩絵具を塗っていた。細長いテーブルの上には一列に青い海が並んでいる。子どもたちがそれぞれに持つ自らの目で感じだ青だ。一枚も同じ青を使っていない。
五嶋がコンソールテーブルの上に並んだグラスにフレッシュオレンジジュースを注ぎ始めた。安寿と航志朗は五嶋を手伝って子どもたちにウエットティッシュを配った。歓声をあげて子どもたちは熱々のドーナツにかじりついた。それを見た安寿とルリは顔を見合わせて微笑んだ。
「岸さまも安寿さまも、よろしかったらどうぞ」と五嶋に勧められてふたりもドーナツをかじった。ほどよくシナモンシュガーが効いていて甘さ控えめの家庭的な味だ。子どもたちはドーナツを何個もお腹に収めると、すぐにまた絵の続きを描き出した。
安寿も航志朗も何も言わずに子どもたちの背後から絵を見て回った。さまざまなアングルで自由に描かれたとても素直な絵だ。安寿も絵を描きたくなって身体がうずうずしてきた。
広間のかたすみにはラグが敷いてあって、そこには三人のさらに幼い子どもたちがカラフルなブロックで遊んでいた。絵を描いている小学生たちの弟妹だ。そのうちの一番小さな男の子が大声で泣き出した。すぐに安寿は駆け寄って行き、その男の子に尋ねた。
「あなたのお兄ちゃんかお姉ちゃんはどこにいるの?」
男の子は、安寿が海辺で絵を見せてもらった女の子を指さした。女の子は絵を描くことに夢中になっていて小さな弟が泣いていることに気がつかない。安寿は「お姉ちゃんは、今、絵を描いているから、私と遊ぼうね」と声をかけたが、男の子は不満げな表情を浮かべて両目にはまた涙がたまってきた。安寿は困り果てて口をへの字に曲げた。
その時、突然、男の子は安寿の背より高い位置に抱き上げられた。「あっ」と安寿が声をあげて見上げると、軽々と航志朗が男の子を高く抱き上げて言った。
「お兄さんとブロックで遊ぼうか」
航志朗は驚いて泣き止んだ男の子をラグの上に降ろすと、自ら緑色と黄緑色のブロックを手早く組み立て始めた。恐竜か怪獣の姿が形作られていく。すっかり泣くことを忘れた男の子は航志朗の手元を夢中になって見つめた。他の二人の子どももぽかんと口を開けて航志朗を見た。手を動かしながら航志朗は安寿に得意げな視線を送ってきた。
内心で安寿は思った。
(……お兄さん?)