今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
大理石の長テーブルのすみでルリは岩絵具を使って何かを描いていた。強く心を惹かれながら近寄って、安寿はルリの絵を見つめた。それは海面を描いているのだろうか、青一色の絵だった。角度によっては緑色に見えたり黄金色に見えたりする。ルリの絵は神妙で奥深い色彩を帯びていた。背筋を伸ばして安寿は思った。
(これが、日本画の本物の色彩なんだ……)
背後に安寿が立ちすくんでいることに気づくと、ルリが優しいまなざしで言った。
「安寿さん。私はね、世間では日本画家といわれているけれど、私自身は全然そう思っていないのよ。だって私、日本画どころか美術の専門教育を受けたことがないし。ただ子どもの頃に兄が絵を描いている姿を彼の隣でずっと見ていただけなの。その時、彼はまだ私の兄ではなかったけれど」
安寿はルリの哀しげに陰る瞳の色に気づいた。
(アカネさんがおっしゃっていたルリさんの初恋のひとって、亡くなったルリさんのお兄さんなのかもしれない……)
そこへ航志朗がやって来て言った。航志朗の足元には小さな子どもたちがまとわりついている。すっかり気に入られたようだ。
「ルリさんの作品は世界中から絶え間なく注文が入っている。俺は学生時代にフィンランドのギャラリーで初めてルリさんの作品を見たんだ。それは非売品で、オーナーの秘蔵品だと聞いた」
思いきって安寿はルリに頼んだ。
「ルリさん。私にルリさんの作品を見せていただけないでしょうか?」
ルリは小さく微笑んだ。
「私が描いた絵は、一枚も私の手元にないの」
「えっ?」
心から安寿は驚いた。
「私はご依頼された絵を描いて、その方にお渡しするだけ。私は自分のために絵を描いていないから」
安寿はルリの手元を見つめた。ルリの右手の中指には鉛筆だこができている。長い間、画筆を握ってきた証拠だ。
(私、ルリさんのお気持ちがわかるかもしれない。私も自分の絵に執着心がないから)
急に胸の奥が苦しくなって安寿は顔をしかめた。
黒檀の角盆の上に使い込まれた絵皿がたくさん並んでいる。安寿はその上に盛られた岩絵具を見て、何かに追い詰められたような気分になった。安寿の胸の鼓動が早まっていく。耳の奥に自分の脈が重くうごめく。安寿は緊迫感のある表情でルリに頼んだ。
「ルリさんお願いです、私に日本画を教えてください!」
隣で航志朗が驚いた表情を浮かべたことに気づいたが、安寿は必死だった。安寿は頭を下げてまたルリに頼んだ。
「どうかお願いいたします、ルリさん!」
絵を描く手を止めて子どもたちが不思議そうに安寿の姿を見つめた。
ルリは安寿の頭を優しくなでて言った。
「お顔を上げて。安寿さん」
安寿は顔を上げてルリの瞳を見つめた。やはりルリの瞳の奥には懐かしい何かが映っている。それはなぜか哀しく安寿の心を震わせる。
ルリは穏やかに微笑んで言った。
「安寿さん。申しわけないけれど、私はあなたに絵を教えることはできないわ。あなただけじゃない、ここにいる子どもたちにもよ。『絵画教室』なんて言っているけれど、私は絵を描く時間と空間を子どもたちに提供しているだけ。いいえ、提供じゃないわ。共有と言った方が、私にとってはしっくりくるわね」
「絵を描く時間と空間の『共有』……」
安寿はしっかりとルリの姿を見つめた。深く物事を考えてきた賢者の品格がそこにある。
「ねえ、安寿さん。私はあなたに絵を教えることはできないけれど、私が絵を描いている姿をあなたに見せることはできるわ。それでよかったら、私のアトリエにいらっしゃい」
安寿はうなずいて礼を言った。
「はい。ありがとうございます。どうか私に見せてください。ルリさんが日本画を描かれている時間と空間を」
森の中の小道を下って別荘に戻りながら、眉をひそめて航志朗は安寿を見守っていた。ずっと安寿は下を向いて黙り込んでいる。まるっきり航志朗の存在を忘れているかのように。安寿は航志朗が知り得ない何かを一心に考えている。航志朗は顔をしかめて思った。
(なぜ安寿はあんなにも日本画の習得にこだわるんだ? それもこんなにも思い詰めた様子でいったいどうしたんだ……)
五嶋が持たせてくれた新鮮な刺身の盛り合わせを手巻き寿司にして、ふたりは陽が落ちる前に夕食をとった。古閑家から帰宅しても安寿はもの静かに何かを考え込んでいた。
まだ八時だったが、手をつないでふたりはベッドルームに行った。ベッドの上に横になると、すぐに安寿は航志朗に身を寄せてきた。安堵した航志朗は安寿を腕の中にしっかりと抱きしめた。安寿も航志朗の身体に腕を回して抱きついた。当然のことながら航志朗の身体は安寿の感触に反応するが、今夜は裸になって抱き合う雰囲気ではないことはじゅうぶんわかっている。
航志朗は安寿の頭と背中を優しくなでた。自分に身を任せて安寿がだんだん身体の力を抜いていくのを感じる。心から安寿に信頼されている証しに航志朗は安寿への愛おしさがあふれてくる。安寿は航志朗の腕の中で目を閉じて小さな声で言った。
「航志朗さん、私が眠るまでこうしていてくれる?」
航志朗は胸をどきっとさせた。安寿が敬語を使わなかったからだ。今までの安寿だったら「こうしていてくれますか?」と言ったはずだ。思いがけず安寿との心の距離が縮まった感じがしてたまらない気持ちになる。航志朗は声が震えてしまいそうになりながらも優しい声で応えた。
「うん。朝までずっとこうしているよ、安寿」
同時に航志朗は心のなかで叫んだ。
(朝までじゃない。ずっとずっと永遠に君とこうしている!)
すーっと安寿は眠りに落ちた。確かに航志朗の耳にはその音が聞こえた。自分の腕の中で温かく息づく存在に身体じゅうに熱いものがこみ上げてくる。航志朗は安寿の黒髪に顔をうずめて想いを告げた。
「安寿、俺は君を愛している。君さえいてくれれば、他に何もいらない」
(これが、日本画の本物の色彩なんだ……)
背後に安寿が立ちすくんでいることに気づくと、ルリが優しいまなざしで言った。
「安寿さん。私はね、世間では日本画家といわれているけれど、私自身は全然そう思っていないのよ。だって私、日本画どころか美術の専門教育を受けたことがないし。ただ子どもの頃に兄が絵を描いている姿を彼の隣でずっと見ていただけなの。その時、彼はまだ私の兄ではなかったけれど」
安寿はルリの哀しげに陰る瞳の色に気づいた。
(アカネさんがおっしゃっていたルリさんの初恋のひとって、亡くなったルリさんのお兄さんなのかもしれない……)
そこへ航志朗がやって来て言った。航志朗の足元には小さな子どもたちがまとわりついている。すっかり気に入られたようだ。
「ルリさんの作品は世界中から絶え間なく注文が入っている。俺は学生時代にフィンランドのギャラリーで初めてルリさんの作品を見たんだ。それは非売品で、オーナーの秘蔵品だと聞いた」
思いきって安寿はルリに頼んだ。
「ルリさん。私にルリさんの作品を見せていただけないでしょうか?」
ルリは小さく微笑んだ。
「私が描いた絵は、一枚も私の手元にないの」
「えっ?」
心から安寿は驚いた。
「私はご依頼された絵を描いて、その方にお渡しするだけ。私は自分のために絵を描いていないから」
安寿はルリの手元を見つめた。ルリの右手の中指には鉛筆だこができている。長い間、画筆を握ってきた証拠だ。
(私、ルリさんのお気持ちがわかるかもしれない。私も自分の絵に執着心がないから)
急に胸の奥が苦しくなって安寿は顔をしかめた。
黒檀の角盆の上に使い込まれた絵皿がたくさん並んでいる。安寿はその上に盛られた岩絵具を見て、何かに追い詰められたような気分になった。安寿の胸の鼓動が早まっていく。耳の奥に自分の脈が重くうごめく。安寿は緊迫感のある表情でルリに頼んだ。
「ルリさんお願いです、私に日本画を教えてください!」
隣で航志朗が驚いた表情を浮かべたことに気づいたが、安寿は必死だった。安寿は頭を下げてまたルリに頼んだ。
「どうかお願いいたします、ルリさん!」
絵を描く手を止めて子どもたちが不思議そうに安寿の姿を見つめた。
ルリは安寿の頭を優しくなでて言った。
「お顔を上げて。安寿さん」
安寿は顔を上げてルリの瞳を見つめた。やはりルリの瞳の奥には懐かしい何かが映っている。それはなぜか哀しく安寿の心を震わせる。
ルリは穏やかに微笑んで言った。
「安寿さん。申しわけないけれど、私はあなたに絵を教えることはできないわ。あなただけじゃない、ここにいる子どもたちにもよ。『絵画教室』なんて言っているけれど、私は絵を描く時間と空間を子どもたちに提供しているだけ。いいえ、提供じゃないわ。共有と言った方が、私にとってはしっくりくるわね」
「絵を描く時間と空間の『共有』……」
安寿はしっかりとルリの姿を見つめた。深く物事を考えてきた賢者の品格がそこにある。
「ねえ、安寿さん。私はあなたに絵を教えることはできないけれど、私が絵を描いている姿をあなたに見せることはできるわ。それでよかったら、私のアトリエにいらっしゃい」
安寿はうなずいて礼を言った。
「はい。ありがとうございます。どうか私に見せてください。ルリさんが日本画を描かれている時間と空間を」
森の中の小道を下って別荘に戻りながら、眉をひそめて航志朗は安寿を見守っていた。ずっと安寿は下を向いて黙り込んでいる。まるっきり航志朗の存在を忘れているかのように。安寿は航志朗が知り得ない何かを一心に考えている。航志朗は顔をしかめて思った。
(なぜ安寿はあんなにも日本画の習得にこだわるんだ? それもこんなにも思い詰めた様子でいったいどうしたんだ……)
五嶋が持たせてくれた新鮮な刺身の盛り合わせを手巻き寿司にして、ふたりは陽が落ちる前に夕食をとった。古閑家から帰宅しても安寿はもの静かに何かを考え込んでいた。
まだ八時だったが、手をつないでふたりはベッドルームに行った。ベッドの上に横になると、すぐに安寿は航志朗に身を寄せてきた。安堵した航志朗は安寿を腕の中にしっかりと抱きしめた。安寿も航志朗の身体に腕を回して抱きついた。当然のことながら航志朗の身体は安寿の感触に反応するが、今夜は裸になって抱き合う雰囲気ではないことはじゅうぶんわかっている。
航志朗は安寿の頭と背中を優しくなでた。自分に身を任せて安寿がだんだん身体の力を抜いていくのを感じる。心から安寿に信頼されている証しに航志朗は安寿への愛おしさがあふれてくる。安寿は航志朗の腕の中で目を閉じて小さな声で言った。
「航志朗さん、私が眠るまでこうしていてくれる?」
航志朗は胸をどきっとさせた。安寿が敬語を使わなかったからだ。今までの安寿だったら「こうしていてくれますか?」と言ったはずだ。思いがけず安寿との心の距離が縮まった感じがしてたまらない気持ちになる。航志朗は声が震えてしまいそうになりながらも優しい声で応えた。
「うん。朝までずっとこうしているよ、安寿」
同時に航志朗は心のなかで叫んだ。
(朝までじゃない。ずっとずっと永遠に君とこうしている!)
すーっと安寿は眠りに落ちた。確かに航志朗の耳にはその音が聞こえた。自分の腕の中で温かく息づく存在に身体じゅうに熱いものがこみ上げてくる。航志朗は安寿の黒髪に顔をうずめて想いを告げた。
「安寿、俺は君を愛している。君さえいてくれれば、他に何もいらない」