今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
岸家を出ると外は薄暗くなっていた。安寿は咲がつくったバースデーケーキが入った箱を膝にのせて岸家の車の後部座席に座っている。安寿はひとことも話さずにその顔色は青白い。助手席に座っている伊藤はそっと安寿の顔をうかがい、眉間にしわを寄せた。安寿の送り迎えを始めてから、もうすぐ二年になる。いつのまにか伊藤にとって土曜日は心楽しい日になっていた。それは、伊藤にとってはまったくの想定外だった。まさかこんな日々がやって来るとは思ってもみなかった。
伊藤の妻の咲も同じ気持ちだ。土曜日が近づくと安寿にどんな昼食やおやつを用意しようかと、咲は心を弾ませながら考えている。
伊藤はこれから起こりうる出来事に思いをめぐらせた。そして、この真珠のように清純な少女に自分は何ができるのか目を閉じて考えた。
午前零時すぎ、シンガポールのコンドミニアムの真っ暗な部屋で、デスクライトだけをつけてノートパソコンのキーボードをせわしなく叩き、航志朗は博士論文のためのリサーチ・プロジェクトの成果をまとめていた。航志朗はイギリスの大学卒業後、二つの修士号を取得し、現在は博士課程に在籍して二年目である。先週の大学院の指導教官との面談で今後のスケジュールを相談してきたばかりだ。大学院の講義はほとんどないので、シンガポールでの多忙な仕事と両立できている。博士号を航志朗は最短の三年間で取得することを目標としている。そのため、オフィスから帰宅後は睡眠時間を削って研究に当てていた。そんな時、航志朗のかたわらに置いてあるスマートフォンが鳴った。着信画面を見て、航志朗は顔をしかめた。
それは華鶴からだった。航志朗はスマートフォンを無視してしばらく着信音を鳴りっぱなしにしておいたが、なかなか鳴り止まない。航志朗は手を止めて息を音を立てて吐き、いら立ちながらスマートフォンをタップした。
「……はい」
『今、話せるかしら? それとも、いい女とお取り込み中だったら、遠慮するけれど?』
その母の品のない低俗な言葉に、航志朗は心底うんざりした。
「あなたが直接電話してくるとは珍しいですね。お察しの通り取り込み中なので、手短かにお願いしたいのですが」
華鶴はくすりと艶っぽく笑って言った。
『あなたに可愛い妹ができるわよ』
「は?」
『宗嗣さんのモデルを養女に迎えるの』
(……どういうことだ?)
突然の告知に航志朗は混乱した。まったくわけがわからない。
『で、家族会議が必要でしょう? ちょうど今週末から宗嗣さんの個展が始まるし、あなた、画廊に顔出しなさいよ』と華鶴は言って、一方的に電話は切れた。
この一週間、安寿は考えに考えていた。考えすぎて頭が痛くなるほどだった。授業もうわの空で莉子に心配された。「安寿ちゃん。もしかして好きなひとでもできた?」と莉子に言われた。そんなことだったら、どんなにか楽でよかっただろう。華鶴には「すぐに返事ができることではないから、ゆっくり考えてね」と言われたが、時間の猶予はないのだ。安寿は夜も眠れずにベッドの中で「養女」という二文字について考えた。
(私が岸先生と華鶴さんの娘になるの? あのお屋敷に一緒に住むの?)
それがどういうことになるのか、安寿にはまったく想像ができない。でも、安寿は十八歳になった。もう大人だ。親の同意を得なくても、自分の意志で自分のことを決めることができる。唯一の肉親である叔母の同意がなくても、安寿が決断すれば「養女」になれる。
(でも、いいの? 本当にいいの?)
恵は安寿の前では平静を装い、いつものように出版社に出社して午後九時頃に帰宅する。恵はすでに心に決めていた。長い間付き合ってきた渡辺と今度こそきっぱり別れることを。
恵と渡辺との出会いは、ふたりが中学生の時にさかのぼる。中学時代の二年間と四か月、ふたりは同じクラスだった。さらに同じ美術部でともに絵を描き、親しく話すようになった。渡辺は文武両道の優秀な生徒で、成績は常にトップであった。恵も成績がよかったが、それは渡辺のおかげだった。渡辺を見習ってよく勉強したし、理解できないところは渡辺に教えてもらっていたのだ。休日には、一歳年上の姉の愛をともなって渡辺と三人でよく美術館に通った。愛は気を利かせて、さりげなく渡辺と二人きりにしてくれた。
中学三年生の夏に渡辺の父親の転勤で、渡辺は家族でドイツに渡ることになった。渡辺がドイツに出発する日の前日、ふたりは互いを想い合っていることを確認した。そして、その日の夕暮れ、恵と渡辺は初めてのキスをした。それからふたりは文通をして、渡辺が一時帰国した際は必ず会っていた。高校卒業後、大学進学のために渡辺は単身帰国し、恵と渡辺は同じ大学に進学した。ふたりはまた毎日会えるようになった。
恵が大学三年生の春に安寿が生まれた。姉の愛は未婚で出産し、両親と愛と恵姉妹、安寿で五人家族になった。またその頃、銀行員をしていた渡辺の父はドイツで有機農業に出会い、帰国後、故郷の北海道で農業法人を設立した。大学卒業後、ふたりは同じ美術舎出版に就職した。渡辺は編集者として頭角を現し、社内では史上最年少で美術月刊誌の編集長に抜擢された。恵と渡辺は順調に交際を続けていたが、結婚を意識しはじめた二十六歳の時、安寿の母である姉の愛が、突然の事故で亡くなった。数年後、後を追うように両親も亡くなり、恵は幼い安寿を一人で育てる決心をした。
この一週間、恵は無口になっていて、思いつめた表情で何かを考え込んでいる様子だった。安寿はそんな叔母のただならない様子が心配でたまらなかった。
伊藤の妻の咲も同じ気持ちだ。土曜日が近づくと安寿にどんな昼食やおやつを用意しようかと、咲は心を弾ませながら考えている。
伊藤はこれから起こりうる出来事に思いをめぐらせた。そして、この真珠のように清純な少女に自分は何ができるのか目を閉じて考えた。
午前零時すぎ、シンガポールのコンドミニアムの真っ暗な部屋で、デスクライトだけをつけてノートパソコンのキーボードをせわしなく叩き、航志朗は博士論文のためのリサーチ・プロジェクトの成果をまとめていた。航志朗はイギリスの大学卒業後、二つの修士号を取得し、現在は博士課程に在籍して二年目である。先週の大学院の指導教官との面談で今後のスケジュールを相談してきたばかりだ。大学院の講義はほとんどないので、シンガポールでの多忙な仕事と両立できている。博士号を航志朗は最短の三年間で取得することを目標としている。そのため、オフィスから帰宅後は睡眠時間を削って研究に当てていた。そんな時、航志朗のかたわらに置いてあるスマートフォンが鳴った。着信画面を見て、航志朗は顔をしかめた。
それは華鶴からだった。航志朗はスマートフォンを無視してしばらく着信音を鳴りっぱなしにしておいたが、なかなか鳴り止まない。航志朗は手を止めて息を音を立てて吐き、いら立ちながらスマートフォンをタップした。
「……はい」
『今、話せるかしら? それとも、いい女とお取り込み中だったら、遠慮するけれど?』
その母の品のない低俗な言葉に、航志朗は心底うんざりした。
「あなたが直接電話してくるとは珍しいですね。お察しの通り取り込み中なので、手短かにお願いしたいのですが」
華鶴はくすりと艶っぽく笑って言った。
『あなたに可愛い妹ができるわよ』
「は?」
『宗嗣さんのモデルを養女に迎えるの』
(……どういうことだ?)
突然の告知に航志朗は混乱した。まったくわけがわからない。
『で、家族会議が必要でしょう? ちょうど今週末から宗嗣さんの個展が始まるし、あなた、画廊に顔出しなさいよ』と華鶴は言って、一方的に電話は切れた。
この一週間、安寿は考えに考えていた。考えすぎて頭が痛くなるほどだった。授業もうわの空で莉子に心配された。「安寿ちゃん。もしかして好きなひとでもできた?」と莉子に言われた。そんなことだったら、どんなにか楽でよかっただろう。華鶴には「すぐに返事ができることではないから、ゆっくり考えてね」と言われたが、時間の猶予はないのだ。安寿は夜も眠れずにベッドの中で「養女」という二文字について考えた。
(私が岸先生と華鶴さんの娘になるの? あのお屋敷に一緒に住むの?)
それがどういうことになるのか、安寿にはまったく想像ができない。でも、安寿は十八歳になった。もう大人だ。親の同意を得なくても、自分の意志で自分のことを決めることができる。唯一の肉親である叔母の同意がなくても、安寿が決断すれば「養女」になれる。
(でも、いいの? 本当にいいの?)
恵は安寿の前では平静を装い、いつものように出版社に出社して午後九時頃に帰宅する。恵はすでに心に決めていた。長い間付き合ってきた渡辺と今度こそきっぱり別れることを。
恵と渡辺との出会いは、ふたりが中学生の時にさかのぼる。中学時代の二年間と四か月、ふたりは同じクラスだった。さらに同じ美術部でともに絵を描き、親しく話すようになった。渡辺は文武両道の優秀な生徒で、成績は常にトップであった。恵も成績がよかったが、それは渡辺のおかげだった。渡辺を見習ってよく勉強したし、理解できないところは渡辺に教えてもらっていたのだ。休日には、一歳年上の姉の愛をともなって渡辺と三人でよく美術館に通った。愛は気を利かせて、さりげなく渡辺と二人きりにしてくれた。
中学三年生の夏に渡辺の父親の転勤で、渡辺は家族でドイツに渡ることになった。渡辺がドイツに出発する日の前日、ふたりは互いを想い合っていることを確認した。そして、その日の夕暮れ、恵と渡辺は初めてのキスをした。それからふたりは文通をして、渡辺が一時帰国した際は必ず会っていた。高校卒業後、大学進学のために渡辺は単身帰国し、恵と渡辺は同じ大学に進学した。ふたりはまた毎日会えるようになった。
恵が大学三年生の春に安寿が生まれた。姉の愛は未婚で出産し、両親と愛と恵姉妹、安寿で五人家族になった。またその頃、銀行員をしていた渡辺の父はドイツで有機農業に出会い、帰国後、故郷の北海道で農業法人を設立した。大学卒業後、ふたりは同じ美術舎出版に就職した。渡辺は編集者として頭角を現し、社内では史上最年少で美術月刊誌の編集長に抜擢された。恵と渡辺は順調に交際を続けていたが、結婚を意識しはじめた二十六歳の時、安寿の母である姉の愛が、突然の事故で亡くなった。数年後、後を追うように両親も亡くなり、恵は幼い安寿を一人で育てる決心をした。
この一週間、恵は無口になっていて、思いつめた表情で何かを考え込んでいる様子だった。安寿はそんな叔母のただならない様子が心配でたまらなかった。