今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第8節
それから毎日、安寿と航志朗はルリのアトリエに通った。古閑家の一番奥の部屋にルリがアトリエにしている和室がある。安寿は日本画を描くルリの後ろに背筋を伸ばして座った。
いつも絵を描き始める前にルリは正座して目を閉じた。静かに瞑想しているようだった。やがて、ルリは目を開けると、おもむろに画筆を手に持って日本画を淡々と描き始めた。
安寿は岸が絵を描いている姿を思い出した。岸はモデルの安寿を見つめながら画筆を動かす。常に安寿と岸は対峙している。だが、ここで安寿が見えるのはルリの後ろ姿だけだ。いったん絵を描くことに没頭したルリは後ろに安寿がいることに意識を向けない。確かにルリは安寿の目の前に存在しているが、次元が違うところにいるかのような錯覚を起こしてしまう。
安寿はルリの画筆の筆先だけを見つめていた。絵皿に筆先が浸るのを見る。文机に広げられた和紙の上にルリの筆先がしなるのを見つめる。自然とその筆先の動きに合わせて安寿の身体もしなるように揺れる。
安寿とルリから離れた襖の前に正座した航志朗は、ずっと安寿を見守っていた。航志朗は今の自分の役割がわかっている。ただその瞳で安寿を見守るだけだ。完全に無防備な状態の安寿を守護するように、航志朗は黙って安寿を見つめていた。やがて、航志朗は緊張感の漂う安寿とルリのふたりの姿を見ていて思い当たった。
(これは「面授」だ。仏教でいうその教えを師から弟子へとライブで授ける行為……)
航志朗は膝の上のこぶしをぐっと握りしめた。
(安寿、本当に君はなんて凄まじいひとなんだ。そして、君はこれからいったい何をしようとしているんだ)
今まで感じたことがないくらいの底知れない恐怖心がわきあがり航志朗は背筋をこわばらせた。
アトリエから別荘に戻ると力尽きた安寿はぐったりとソファに寄り掛かった。やっと二人きりの時間になっても安寿には航志朗と甘い時間を過ごす余力はまったく残っていない。それでも航志朗は安寿に少しでも触れていたいと切実に思った。思案した航志朗は安寿の肩と背中を優しくマッサージし始めたが、すぐに安寿はソファに突っ伏して眠ってしまった。苦笑を浮かべて航志朗はつくづく思った。
(そもそも俺たちはここになんのために来たんだ? 二人きりでゆっくり休暇を過ごすためだよな)
自ら招いた事態だとはいえ、がっくりと航志朗は肩を落とした。
眠ってしまった安寿を抱き上げてベッドに運んでから、航志朗はひとりでバルコニーに出て夜の海を眺めながら炭酸水を飲んでいた。振り返るとテーブルの上に置かれた安寿の顔彩が目に入った。しばらくそれを見つめると、ふと航志朗は思い立ってスマートフォンを手に取った。
いつも絵を描き始める前にルリは正座して目を閉じた。静かに瞑想しているようだった。やがて、ルリは目を開けると、おもむろに画筆を手に持って日本画を淡々と描き始めた。
安寿は岸が絵を描いている姿を思い出した。岸はモデルの安寿を見つめながら画筆を動かす。常に安寿と岸は対峙している。だが、ここで安寿が見えるのはルリの後ろ姿だけだ。いったん絵を描くことに没頭したルリは後ろに安寿がいることに意識を向けない。確かにルリは安寿の目の前に存在しているが、次元が違うところにいるかのような錯覚を起こしてしまう。
安寿はルリの画筆の筆先だけを見つめていた。絵皿に筆先が浸るのを見る。文机に広げられた和紙の上にルリの筆先がしなるのを見つめる。自然とその筆先の動きに合わせて安寿の身体もしなるように揺れる。
安寿とルリから離れた襖の前に正座した航志朗は、ずっと安寿を見守っていた。航志朗は今の自分の役割がわかっている。ただその瞳で安寿を見守るだけだ。完全に無防備な状態の安寿を守護するように、航志朗は黙って安寿を見つめていた。やがて、航志朗は緊張感の漂う安寿とルリのふたりの姿を見ていて思い当たった。
(これは「面授」だ。仏教でいうその教えを師から弟子へとライブで授ける行為……)
航志朗は膝の上のこぶしをぐっと握りしめた。
(安寿、本当に君はなんて凄まじいひとなんだ。そして、君はこれからいったい何をしようとしているんだ)
今まで感じたことがないくらいの底知れない恐怖心がわきあがり航志朗は背筋をこわばらせた。
アトリエから別荘に戻ると力尽きた安寿はぐったりとソファに寄り掛かった。やっと二人きりの時間になっても安寿には航志朗と甘い時間を過ごす余力はまったく残っていない。それでも航志朗は安寿に少しでも触れていたいと切実に思った。思案した航志朗は安寿の肩と背中を優しくマッサージし始めたが、すぐに安寿はソファに突っ伏して眠ってしまった。苦笑を浮かべて航志朗はつくづく思った。
(そもそも俺たちはここになんのために来たんだ? 二人きりでゆっくり休暇を過ごすためだよな)
自ら招いた事態だとはいえ、がっくりと航志朗は肩を落とした。
眠ってしまった安寿を抱き上げてベッドに運んでから、航志朗はひとりでバルコニーに出て夜の海を眺めながら炭酸水を飲んでいた。振り返るとテーブルの上に置かれた安寿の顔彩が目に入った。しばらくそれを見つめると、ふと航志朗は思い立ってスマートフォンを手に取った。