今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その時、九条容は銀座の九彩堂でその日最後の客を送り出していた。お盆休みもなく店は営業していた。容は店内の照明を落とした。真っ暗になった店の窓から不自然に明るい東京の夜空を見上げてため息をついた。清華美術大学に編入することを決めてから容はずっと迷っていた。この店を継ぐのか、継がないのかと。

 祖母の千里には一人娘がいる。容の母だ。母は若い頃から自由奔放な生き方をしていて、今は恋人とニュージーランドに住んでいるらしい。容は母がアメリカのバーモント州に留学している時に生まれた。容の茶色がかった髪の色はアメリカ人の父親から受け継いだものだ。子どもの頃は今よりもずっと金髪に近い色だったが、大人になるにつれてだんだん茶色に変化していった。容はバーリントンで生まれて、六歳から東京で育った。帰国してまもなく母は容を置いてアメリカに戻った。実質、容は祖父母に育てられた。

 六階の自宅に戻ると容は祖母がつくった夕食をレンジアップしてダイニングテーブルに運んだ。家の中はしんと静まり返っている。珍しく先に眠ってしまったのだろうか、祖母はリビングルームにいなかった。いつものように容はイヤホンをしてスマートフォンの動画サイトを見ながら夕食をとった。今夜のメニューは肉じゃがだ。今年の春に別れた彼女がよくつくってくれた料理が肉じゃがだった。ふとその甘くて濃いめの味と彼女の柔らかい身体を生なましく思い出したが、容はこぶしで額をたたいてまだ色褪せていない記憶を打ち砕いた。

 リビングルームのドアを開ける音が聞こえた。浴衣姿の祖母が部屋に入って来た。祖母は透明なガラス製のトレイを注意深く手に持っていた。そのトレイの上にはところどころ黄金色に光る青い石がのっている。千里は容の目の前にトレイを置くと、静かに容に言い渡した。

 「容さん、先程ご注文が入ったの。これを岩絵具に加工してお客さまの元に届けてくださいね」

 目を見開いて容はあわてて言った。

 「おばあさま! これって……」

 「そう。おじいさまが最後の中東出張で仕入れてきた石よ」

 「ずっとおばあさまが大切にされてきた石じゃないですか」

 「ええ。でも、その時が来たのよ」

 「そうですか。そのお客さまはどなたですか?」

 「今、熊本にいらっしゃるの。お急ぎのようだから、岩絵具が出来次第、飛行機に乗ってお客さまに直接届けてくださいね」

 その言葉に容は思い出した。

 (……熊本? そういえば、安寿さんが、航志朗さんと滞在されているはずだ)

 「おばあさま、九州に大型の台風が接近しているとさっきネットで見ました。飛行機が欠航したら帰って来られなくなるので宅急便で送ってもよろしいでしょうか?」

 千里は容を見て言った。

 「いいえ、だめよ。あなたは、その時(・・・)そこ(・・)にいなければならないの」

 遠い目をした祖母の瞳は容の身体を透り越して目に見えない何かを見つめている。

 (「その時」? 「そこ」だって? 久しぶりにはじまった。おばあさまの予言が)

 目をむいて容は天井を見上げた。

 容はその石を自室に持ち帰った。改めて青い石を手のひらにのせて目の前に掲げる。青紫色の石はすでに表面が祖父の手によって削られていて、ほとんど不純物が見当たらない。石は主成分のラズライトの青に、微かにパイライトの黄金色が混じっている。地球のような、はたまた宇宙そのもののような神秘的な青い色をしている。清華美術大学に編入する前に、容は国立大学の理学部で地球物質学を専攻していた。容は鉱物に詳しい。ベッドに寝そべって容は独り言ちた。

 「……ラピスラズリか。真実の自分を見出させる石。心の底から真実を求めるのなら、その持ち主にはやがて『試練』がやって来る」

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