今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 土曜日の朝、岸の個展が開催されているためにモデルのアルバイトが休みになっていた安寿は、いつもより遅い午前八時半すぎに起きて自室から出てきた。昨晩もよく眠れなかった。パジャマのままの安寿は、恵が家じゅうをすみからすみまで大掃除していることに気がついて驚いた。私物の整理もしているらしく、ぱんぱんにふくらんだごみ袋が並んでいる。恵はすっきりとした表情で「安寿、おはよう。今日は遅かったのね」と言い、「朝ごはん、トーストと目玉焼きでいい?」といつもの叔母になっていた。

 遅い朝食後、温かいミルクティーを淹れてふたりで飲んでいると、突然、恵は軽い口調で言った。

 「安寿。今夜、私、外泊して来てもいいかな。十八歳になったんだし、もう一人でも大丈夫だよね?」

 そんなことを恵が言うのは初めてだ。はじめ安寿はほっとして嬉しく思った。きっと渡辺と仲よく二人で素敵な夜を過ごすのだろう。だが、次に恵が言った言葉に安寿は仰天した。

 「私ね、今夜で、優ちゃんと別れることにしたの」

 恵は晴れ晴れとした笑顔で言った。

 思わず安寿は大声で叫んだ。

 「どうして? 恵ちゃん、優仁さんのこと、ずっとずっと大好きなんでしょ!」

 「もう決めたのよ」と恵は微笑んで言って席を立ち、朝食の食器の後片づけをし始めた。

 安寿は自室に戻り固く決心した。「私は岸家の養女になって、恵ちゃんに結婚してもらう」と。養女になることで何が起ころうとも、私は一人で大丈夫。そう、私は、今日、大人になるんだ。安寿は必死の想いで覚悟を決めた。そうと決まったら、画廊にいる華鶴に養女になると言いに行かなければならない。今夜、恵が渡辺に別れを告げる前に。

 安寿は急いでベージュのコットンタイプライターのワンピースに着替えて身支度をした。そして、腕まくりをして熱心に浴室の床掃除をしている恵に言った。

 「恵ちゃん、私、これから画材屋さんに行ってくる。足りない油絵具があるの。それから本屋さんにも行くつもり。お昼ごはんは外で食べてくるね」と安寿は努めて普段どおりに声をかけた。

 恵は安寿の普段と違う様子にまったく気づかない。

 「そう。私は午後五時ごろ出かけるわね。戸締りを確認したいから、私が出かける前には必ず帰って来てね。あと夜ごはんにシチューでもつくっておくわ」と顔を上げて言って、また浴室の床を磨きはじめた。

 「わかった。恵ちゃん、ありがとう。いってきます」

 安寿は黒いレースアップシューズを履いて、皮靴の紐を固く縛った。そして、玄関のドアを静かに閉めるやいなや、一目散に駆け出した。安寿は地下鉄の駅に向かって、息せき切って走って行った。

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