今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その時、ルリがやって来た。先程、広間で見たルリとはまったく印象が違う。うっすらと暗い影をまとったような表情でルリは畳の上に崩れるように座り込んだ。その様子を目の当たりにして心配になった安寿は、ルリの隣に来て正座して座った。

 ルリは哀しそうな瞳を浮かべている。航志朗と容もルリの様子に気づいて、その場に静かに座った。

 しばらく沈黙してからルリが灰色の水滴を畳の上にぽつんと一滴たらしたように言った。

 「実は今日、兄の命日なの」

 安寿は眉をひそめてルリを見つめた。

 ルリは安寿の表情の変化に気づいて言った。

 「大丈夫よ、安寿さん。ありがとう。皆さまがおいでくださって、本当によかったわ。いつもだったら、この部屋でひとりで泣いていたから」
 
 ルリは少しだけ微笑んで言った。

 「就寝する前に、もう一度だけ兄のお仏壇に手を合わせてもいいかしら」

 安寿はうなずいた。ルリは安寿の目の前で手を合わせた。安寿は気づいている。十年間の哀しみを重ねて、ルリの瞳の奥にはたくさんの涙がたまっている。ルリの心の奥底にひっそりと隠された洞窟には、これまでルリの流せなかった涙が水晶の晶洞(ジオード)ような結晶をつくっている。

 ルリは仏壇に向き合ったままで静かに語った。

 「十年前の夏は本当に暑かった。でも、この部屋に入ると、凍えてしまうほどひんやりとしていたわ。兄は亡くなる三か月前に、突然、この家に戻って来たの。地元の中学校を卒業して東京の高校に進学してから、数回しか帰って来なかったのに。すでに兄は身も心も取り返しがつかないくらい損なっていて、この部屋でずっと寝たきりのままだった。私は兄の看病をしながら、隣の部屋で絵を描き続けた……」

 そう言うと、ルリは手を伸ばして飾られた生花の花びらをそっとなでた。

 きつく胸をしめつけられながら安寿はルリに声をかけた。

 「ルリさん。台風が通り過ぎたら、私、お花屋さんに行って来ます。私もルリさんのお兄さんにお花をお供えしたいです」

 ルリは何も答えずに安寿の肩越しに何かを見つめた。その遠い景色を眺めているかのような焦点がはっきりしないルリの視線に気づくと、思わず安寿は振り返って後ろを見た。

 安寿の背後には押入れの白い無地の襖が三枚あるだけだ。しばらくルリは黙り込んで、何かうかがいしれない想いをめぐらせているように安寿には思えた。そのふたりの緊迫感に包まれた様子を見て、航志朗と容は顔を見合わせた。やがて、沈黙を破りルリは安寿に向かって懇願するように言った。

 「安寿さん、お願いがあるの。生花の代わりに、その襖に花の絵を描いてくださらない? 兄と私のために」

 思いがけないルリの言葉に、安寿はルリの目をまっすぐに見つめた。

 そこに、安寿はあの色彩を見つけた。

 (ルリさんの瞳の奥に、あの瑠璃色が見える。今、ここで、私はすることがある!)

 航志朗は安寿を見て思った。

 (安寿の目の色があの色に変わった。安寿、君はまた俺を、俺の心を、揺り動かしてくれるんだな)

 だが、同時に、航志朗の心のなかには言葉にならないもやもやとした怒りにも似た感情もわきあがってくる。

 (でも、どうして油絵ではなくて日本画なんだ。皓貴さんと何か関係があるのか? 安寿、俺はその本当の理由(わけ)が知りたい)

 洗面脱衣室でパジャマから白いワンピースに着替えた安寿は、ルリの目の前でガラス瓶をショルダーバッグの中から取り出した。一瞬でルリの表情が変わった。

 ルリは目を光らせて言った。

 「安寿さん、その色は……」

 「はい。瑠璃色の天然岩絵具です。昨日、容さんが届けてくださったんです」

 ルリは容を見て尋ねた。

 「九条容さまとおっしゃいましたね? やはり、あなたは千里さんの……」

 容はにっこりと笑って言った。

 「はい。僕は九条千里の孫です。祖母の名前をご存じでしたか。私どもの店をご贔屓(ひいき)にしてくださいまして、誠にありがとうございます」

 「銀座の九彩堂さまには先々代からお世話になっております。それに貴店を存じあげない日本画をたしなむ者が、果たしてこの世にいるかしら」

 上品にルリは微笑んだ。

 顔を紅潮させた容は頭を深々と下げて礼を言った。

 「古閑さま。嬉しいお言葉をいただきまして、重ね重ねありがとうございます」

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