今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
午後十時を過ぎて本格的な台風の大嵐がやって来た。強風が低い轟音で吹きすさび、雨粒が古閑邸の窓という窓を叩きつける。
屋敷内は静まり返っていた。避難してきた人びとは家族ごとに割り当てられた部屋に用意された布団やベッドに横になり、台風が通り過ぎて行く長い長い夜の時間にただなすすべもなく目を閉じていた。
ずっと大声で泣きじゃくっていた万里絵の下の弟がやっと寝ついた。下の弟は七か月だ。赤ちゃんを抱きかかえながら布団に横になっている万里絵の母は、ほっとした表情でパジャマのボタンを閉じていった。とっくに海音は寝息を立ててぐっすりと眠っている。
万里絵の母は海音の額を優しくなでてから枕元に置いてあるスマートフォンの画面に目を通して、窓の外を見ている万里絵の後ろ姿に小声で言った。
「まりちゃん。パパは大丈夫だから、心配しないで寝なさいって」
万里絵はうなずくと一番すみの布団に入りタオルケットを引き寄せて目を閉じた。万里絵の母の耳には外の轟音など微塵も入らない。今の彼女にとって、とにかく安全な場所で三人の子どもたちを寝かしつけるのが最優先事項だ。やっと眠った三人の子どもたちの顔をしばらく見つめると万里絵の母のまぶたはだんだんと重くなっていき、彼女は深い眠りに落ちた。眠る前に夫に「どうか気をつけて。おやすみなさい」とショートメールを送信するつもりだったことをすっかり忘れて。
万里絵は目を開けた。寝たふりをしていたのだ。万里絵は自分の部屋以外で眠るのが苦手だ。高千穂町にある祖父母の家でもよく眠れない。だが外泊した時のただ眠れない夜とは何かが違うと万里絵は感じていた。
母と弟たちを起こさないように注意深く万里絵は起き上がった。小花柄が入った白いパジャマのままで万里絵は部屋の外に出て行った。二階の廊下も階段も最低限の電灯が灯っているだけで薄暗いが、万里絵は恐れを感じなかった。万里絵はその先に何かの気配を感じたのだ。ある不可思議な想いが身体の奥底からわきあがり、万里絵を突き動かした。
(これから、私、あそこに行かなくちゃ……)
ゆっくりと一階の長い廊下を奥に行き、引き寄せられるように万里絵はルリのアトリエに向かった。アトリエの前の廊下には五嶋が正座をして座っていた。身じろぎもせずに五嶋はアトリエの中を凝視していた。
五嶋は万里絵に気がつくと微笑んで言った。
「万里絵ちゃん、眠れないのかな」
万里絵はうなずくとアトリエの中をのぞき込んだ。そこにはルリが正座して奥の間を一心に見つめている。ルリは万里絵に気づくと手招きしながら優しい声でささやいた。
「万里絵ちゃん、ここにいらっしゃい」
戸惑った万里絵が躊躇していると、今度は強い口調でルリが言った。
「見てごらんなさい、万里絵ちゃん。安寿さんが絵を描いているところを。きっと今夜はあなたにとって一生忘れられない夜になるわ」
(こんな夜遅くに安寿お姉ちゃんが絵を描いているの?)
不思議に思った万里絵はルリの隣に座って恐る恐る奥の間をのぞき込んだ。胡粉で白く下塗りをされた襖に安寿が画筆を持って何かの輪郭線を描いていた。かたすみでは厳しい表情をした航志朗が腕を組んで安寿を見守っている。安寿の後ろでは、容が膠鍋に小さく折った膠を入れて電気コンロで煮て溶かし膠液を作っている。
万里絵は心底驚いた。安寿は下書きを描いていない真っ白な襖の上に何の迷いもなく画筆を走らせている。何かの花の輪郭線を描いているようだ。
(安寿お姉ちゃん、……すごい!)
屋敷内は静まり返っていた。避難してきた人びとは家族ごとに割り当てられた部屋に用意された布団やベッドに横になり、台風が通り過ぎて行く長い長い夜の時間にただなすすべもなく目を閉じていた。
ずっと大声で泣きじゃくっていた万里絵の下の弟がやっと寝ついた。下の弟は七か月だ。赤ちゃんを抱きかかえながら布団に横になっている万里絵の母は、ほっとした表情でパジャマのボタンを閉じていった。とっくに海音は寝息を立ててぐっすりと眠っている。
万里絵の母は海音の額を優しくなでてから枕元に置いてあるスマートフォンの画面に目を通して、窓の外を見ている万里絵の後ろ姿に小声で言った。
「まりちゃん。パパは大丈夫だから、心配しないで寝なさいって」
万里絵はうなずくと一番すみの布団に入りタオルケットを引き寄せて目を閉じた。万里絵の母の耳には外の轟音など微塵も入らない。今の彼女にとって、とにかく安全な場所で三人の子どもたちを寝かしつけるのが最優先事項だ。やっと眠った三人の子どもたちの顔をしばらく見つめると万里絵の母のまぶたはだんだんと重くなっていき、彼女は深い眠りに落ちた。眠る前に夫に「どうか気をつけて。おやすみなさい」とショートメールを送信するつもりだったことをすっかり忘れて。
万里絵は目を開けた。寝たふりをしていたのだ。万里絵は自分の部屋以外で眠るのが苦手だ。高千穂町にある祖父母の家でもよく眠れない。だが外泊した時のただ眠れない夜とは何かが違うと万里絵は感じていた。
母と弟たちを起こさないように注意深く万里絵は起き上がった。小花柄が入った白いパジャマのままで万里絵は部屋の外に出て行った。二階の廊下も階段も最低限の電灯が灯っているだけで薄暗いが、万里絵は恐れを感じなかった。万里絵はその先に何かの気配を感じたのだ。ある不可思議な想いが身体の奥底からわきあがり、万里絵を突き動かした。
(これから、私、あそこに行かなくちゃ……)
ゆっくりと一階の長い廊下を奥に行き、引き寄せられるように万里絵はルリのアトリエに向かった。アトリエの前の廊下には五嶋が正座をして座っていた。身じろぎもせずに五嶋はアトリエの中を凝視していた。
五嶋は万里絵に気がつくと微笑んで言った。
「万里絵ちゃん、眠れないのかな」
万里絵はうなずくとアトリエの中をのぞき込んだ。そこにはルリが正座して奥の間を一心に見つめている。ルリは万里絵に気づくと手招きしながら優しい声でささやいた。
「万里絵ちゃん、ここにいらっしゃい」
戸惑った万里絵が躊躇していると、今度は強い口調でルリが言った。
「見てごらんなさい、万里絵ちゃん。安寿さんが絵を描いているところを。きっと今夜はあなたにとって一生忘れられない夜になるわ」
(こんな夜遅くに安寿お姉ちゃんが絵を描いているの?)
不思議に思った万里絵はルリの隣に座って恐る恐る奥の間をのぞき込んだ。胡粉で白く下塗りをされた襖に安寿が画筆を持って何かの輪郭線を描いていた。かたすみでは厳しい表情をした航志朗が腕を組んで安寿を見守っている。安寿の後ろでは、容が膠鍋に小さく折った膠を入れて電気コンロで煮て溶かし膠液を作っている。
万里絵は心底驚いた。安寿は下書きを描いていない真っ白な襖の上に何の迷いもなく画筆を走らせている。何かの花の輪郭線を描いているようだ。
(安寿お姉ちゃん、……すごい!)