今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿の瞳は真っ黒だ。持てるすべての力を画筆の先に集約し放出しているのが伝わってくる。奥の間は静かだ。相変わらず外は嵐と大雨の轟音が鳴り響いているが、安寿の耳にはまったく入らない。安寿は透き通った異空間に身を置いているかのようだ。万里絵の目には、絵を描く安寿の姿がこのうえなく美しく見えた。この世のものではないようなあまりの美しさに心が大きく動かされて視界がぼやけてきた。そっとルリは万里絵によい香りがするハンカチを握らせた。

 膠鍋を揺らす容の手は震えていた。一心に絵を描く安寿の姿に心が激しく揺り動かされる。襖に胡粉を塗るのを気軽に手伝っていた時だった。安寿の瞳の色がいつもと違うことに容は気づいた。画筆を握ると安寿は見えない何かをなぞるようによどみなく筆先をしならせた。容は言葉を失くした。これほどまでに絵を描くことに集中している人間を見たことがない。目の前の安寿は全身が透き通り、人という存在を超えているような気がしてきた。安寿が画筆をふるうごとにひるがえる白いワンピースが、安寿が持つ白い翼のように見えてくる。

 その時、鮮明に容は思い出した。

 (昔、おばあさまから聞いたことがある。この世には、生まれながらに「美しい力」を持つ人びとが存在しているということを。「美しい力」を授かった人びとは、その力のすべてをこの世界に注がなければならない使命を持つ。彼らは自らの命を削ってまでもその使命を果たさなければならない運命を背負って、この世に遣わされる……)

 そこまで想いに耽ると、容は全身が凍りつくような恐怖に襲われた。

 (今、安寿さんは命を削って絵を描いている。誰かが彼女を守らなければ、安寿さんは「美しい力」に命を取られてしまう!)

 思わず容は航志朗を見た。腕を組んだ航志朗は不機嫌そうに安寿の背中を見つめている。容の頭のなかに激しい怒りがこみあげてきた。

 (さっきから航志朗さんは何をやっているんだよ! もしかして皓貴さんに嫉妬でもしているのか? そんな場合じゃないだろ。安寿さんを守れるのは、あなたしかいないのに!)

 輪郭線を描き終わると、安寿はすかさずルリの画筆と天然岩絵具を使って葉を一枚一枚塗っていった。だんだん月明かりの下で見ているかのような色彩を帯びた葉と茎が襖に浮き上がってきた。

 息が詰まってきた容は、安寿のそばにいることが耐えられなくなった。音を立てずに容は後ずさりしながら身を引いて奥の間から出ると、ルリと万里絵の隣に正座した。万里絵は容を見上げると、容のシャツの裾をぎゅっと握った。その力強い小さな手に驚いた容は思わず万里絵の顔を見た。万里絵の目元は赤く腫れている。何も言わずに容はそっと万里絵の手を握った。万里絵の手は汗と涙でしっとりと濡れていた。

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