今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 古閑邸の庭で容はひとり朝日を浴びていた。台風が一過した後の空は、嵐が空を大きく引き裂いたかのように紫がかった豪快な白い筋を引いていた。その隙間からまぶしい太陽の光が容に降り注いだ。両手を挙げて容はその光を手のひらですくった。この目の前の朝の光がこのうえなく美しいと容は心の奥底から思った。生まれて初めて感じたその想いは容のなかに流れる血を熱くめぐらせて、容の心を激しく突き動かした。

 「曙色(あけぼのいろ)東雲色(しののめいろ)、茜色……」

 愛おしい恋人の名前を呼ぶように、容は優しい声で朝日の色の名前をささやいた。

 その瞬間、容は決心がついた。

 (僕は九彩堂を継ぐ。この美しい日本の伝統色の世界にこの身を捧げる。安寿さんやルリさんのような「美しい力」を持った人たちのお役に立てるように、僕は日々精進する)

 今、ここにいることに容は心から感謝した。急に涙があふれてきて容はシャツの袖で涙をぬぐった。

 (なにもかも安寿さんのおかげだ。そう、今年の春に彼女と出会って、僕は彼女に恋をしている。でも、絶対に手の届かないひとだ。だから僕は陰ながら彼女を守る。これから安寿さんが使う岩絵具は僕が作る。彼女のために心から祈りを込めて)

 両腕を空に伸ばして容はひとりごとを言った。

 「そうとなったら、今すぐ東京に戻るか」

 その時、後ろから容は声をかけられた。

 「容お兄さん……」

 容が振り向くと、そこに万里絵が立っていた。万里絵はスケッチブックを抱えている。

 「万里絵ちゃん、おはよう」

 「おはようございます、容お兄さん」

 朝日に頬を朱色に照らして万里絵は微笑んだ。

 「僕、これから東京に帰るよ。仕事があるんだ。まあ、まだ学業の方もあるんだけどね」

 一瞬、万里絵は悲しい表情になった。

 「……お仕事?」

 「そう。僕の家は代々日本画の画材専門店を営んでいるんだ。そうだ、いつか東京に来たら店に遊びに来てね。万里絵ちゃんには、店内全品、百パーセント割引にするよ」

 きょとんとして、万里絵は首をかしげた。

 容は万里絵の頭をそっとなでてから言った。

 「じゃあ元気でね、万里絵ちゃん」

 離れて行く容の後ろ姿を見て万里絵は叫んだ。

 「容お兄さん、待って!」

 驚いて振り向いた容の目の前で万里絵はスケッチブックの一ページをべりべりと音を立てて引きはがした。顔を真っ赤にさせた万里絵はその絵を容の目の前に突き出して大声で言った。

 「あげる!」

 「えっ?」

 容が絵を受け取ると、万里絵は背を向けて走り出して去って行った。

 後に残された容は万里絵の絵に目を落とした。鉛筆であの白い川の流れが描いてある。

 (あの絵と同じだ。……どうして?)

 その場にたたずんで容は万里絵の絵をずっと見つめていた。

 朝日を背にルリはアトリエにしている和室に顔を出した。部屋の中を見たルリは思わず微笑んだ。布団の上で安寿が仰向けになってぐっすりと眠っている。安寿の指先には瑠璃色の岩絵具がついたままだ。安寿の横には航志朗が安寿の左手を握ってうつぶせになって眠っている。重なったふたりの結婚指輪が白銀色に輝いている。

 そっとルリは和室の廊下に面した襖を閉じると、長い廊下を歩いて、古閑家の料理人たちが朝食の支度をしている厨房に向かった。

 歩きながらルリは胸の内で兄に語りかけた。

 (康生さん、安寿さんは大丈夫よ。だって、彼女を心から愛する方がずっと安寿さんのおそばにいらっしゃるから)
< 326 / 471 >

この作品をシェア

pagetop