今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第10節
安寿は目を覚ました。ここがどこだかまったくわからない。閉じた襖のわずかなすき間から、明るい光が縦に一筋の直線を描いている。しっかりと握られた左手の先に航志朗の横顔が見えた。
「航志朗さん……」
そう安寿はつぶやくと身体を動かして航志朗にきつくしがみついた。なぜか涙がにじみ出てくる。
「ん……」
うなりながら航志朗が目を開けると安寿の黒髪が目に入った。航志朗はほっとしてかすれた声でつぶやいた。
「安寿……」
安寿が目を潤ませていることに気がつくと、あわてて航志朗は全身で安寿を抱きしめた。
「安寿、大丈夫か」
安寿は航志朗の腕の中でうなずいたが、こらえきれずに嗚咽して泣き出した。
「どうした、安寿?」
何も答えずに安寿はただ声をあげて涙を流している。安寿の髪をなでながら、航志朗は安寿が泣くがままに任せた。
しばらくして安寿は落ち着きを取り戻してきた。航志朗から離れると安寿は這って奥の間に行き、一晩で描いたルリハコベの花の絵を見つめた。身を起こして安寿は航志朗に言った。
「航志朗さん」
「ん?」
「そろそろ帰りましょう、東京へ。ここで私たちがすることは、終わったような気がするんです」
「そうだな。残りの休暇は東京のマンションで過ごすか」
安寿はうなずくと、ルリの兄の仏壇に向かって手を合わせた。航志朗も安寿の隣に来て手を合わせた。
「おはようございます、安寿さん、航志朗さん。入っても大丈夫ですか」
廊下から声がした。容の声だ。「はい、どうぞ」と安寿が言うと、容が和室に入って来た。晴れ晴れとした笑顔で容が言った。
「僕、これから東京に帰ります。飛行機の運航が再開されたので」
「そうか。容、いろいろ世話になったな。本当にありがとう。気をつけて帰れよ」
「はい。こちらこそありがとうございました。あの、航志朗さん。帰る前に僕はあなたに申しあげたいことがあります」
容の意外な言葉に航志朗は首をかしげた。
和室に安寿を残して、着替えた航志朗と容は古閑家の庭に出た。台風一過の晴れ渡った雲ひとつない青空は、一晩中ろうそくの灯火で過ごした航志朗の目にはまぶしすぎる。琥珀色の瞳を金色に輝かせて、航志朗は目を細めた。しばらく容は空を見上げて何事かを考えてから口を開いた。
「航志朗さん。昨夜、安寿さんが絵を描いているお姿を拝見して、僕はあなたに伝えたいことがあります」
怪訝そうに航志朗はうなずいた。今まで見たことがない真剣な表情で容は続けた。
「安寿さんは、凄まじい力を持っています」
「凄まじい力……」
「はい。美を生み出す凄まじい『美しい力』です。安寿さんの一番近くにいるあなたには、それがなんなのかよくわかっていらっしゃるはずだ。今の安寿さんはその力が自分のなかにあることに気づいていない。当然、その力を彼女自身でコントロールすることができない。このままでは、いつか安寿さんは、その『美しい力』に身も心も傷つけられてしまいます」
(ヴィーの曾祖母と千里さんに言われた警告の続きを聞いているようだな……)
航志朗の背筋に冷たく鋭い衝撃が走った。
「航志朗さん、安寿さんを守ってあげてください! 安寿さんを守ることができるのは、あなただけなんですから!」
突然、怒鳴りつけるように容は叫ぶと、顔を赤らめて下を向いた。
「容。おまえ、もしかして……」
やけになって吐き捨てるように容が言った。
「そうだよ。僕は安寿さんが好きなんだ! だから、心から尊敬する航志朗さんでも安寿さんを傷つけたら、一生、許さない!」
深々と一礼すると容は航志朗の前から走り去って行った。深いため息をついて航志朗は澄みきった青空を見上げた。
おにぎりをのせた盆を持った安寿は、古閑家の一階の廊下で容に出くわした。航志朗の姿は見当たらない。息を荒げた容は珍しく深刻な険しい顔をしていて、怒っているようにも見える。
(航志朗さんとけんかでもしたのかな。……まさかね)
安寿は気がつかないふりをして笑顔を作って言った。
「容さん、お部屋で朝食にしましょう。私、お茶を淹れますね」
無遠慮に容はおにぎりを一個つかむと立ったままで口に放り込んだ。目を丸くした安寿に、容はおにぎりをほおばったままで宣言した。
「安寿さん、僕、決めたんです。清美大を卒業したら、店を継ぐことにしました。だから、安寿さん。これからもずっと、僕の一番の、……お客さまになってくださいね」
ものすごく聞き取りづらいが容が言おうとしていることがわかると、心から安寿は嬉しさがあふれてきて笑顔で言った。
「はい。これからもよろしくお願いします、容さん」
ごくんと喉を鳴らしておにぎりを飲み込むと、頬を紅潮させた容は今度は妙になめらかに言った。
「もちろん、僕の大切な安寿さんには、一生、店内全品、百パーセント割引しますから!」
苦笑いしながら安寿はたしなめた。
「それはだめですよ、容さん。一生、ちゃんと百パーセント払わせてくださいね」
安寿と容は近くで顔を見合わせると肩を揺すってくすくす笑い合った。あまりにも可愛らしい安寿の笑顔を間近で見た容はもう我慢できなくなって、横から安寿をぎゅっと抱きしめた。そして、勢い余ってその頬にキスした。
それは一瞬のことだった。驚いて大きく目を見開いた安寿が顔を赤くする前に、容は安寿から離れて走り出した。
「じゃあ、安寿さん、また大学でお会いしましょう!」
振り返らずに手を振ると、容は安寿の前から去って行った。安寿は片手で容にキスされた頬を押さえてつぶやいた。
「容さん……」
やっと我に返った安寿は頬を赤らめた。
「航志朗さん……」
そう安寿はつぶやくと身体を動かして航志朗にきつくしがみついた。なぜか涙がにじみ出てくる。
「ん……」
うなりながら航志朗が目を開けると安寿の黒髪が目に入った。航志朗はほっとしてかすれた声でつぶやいた。
「安寿……」
安寿が目を潤ませていることに気がつくと、あわてて航志朗は全身で安寿を抱きしめた。
「安寿、大丈夫か」
安寿は航志朗の腕の中でうなずいたが、こらえきれずに嗚咽して泣き出した。
「どうした、安寿?」
何も答えずに安寿はただ声をあげて涙を流している。安寿の髪をなでながら、航志朗は安寿が泣くがままに任せた。
しばらくして安寿は落ち着きを取り戻してきた。航志朗から離れると安寿は這って奥の間に行き、一晩で描いたルリハコベの花の絵を見つめた。身を起こして安寿は航志朗に言った。
「航志朗さん」
「ん?」
「そろそろ帰りましょう、東京へ。ここで私たちがすることは、終わったような気がするんです」
「そうだな。残りの休暇は東京のマンションで過ごすか」
安寿はうなずくと、ルリの兄の仏壇に向かって手を合わせた。航志朗も安寿の隣に来て手を合わせた。
「おはようございます、安寿さん、航志朗さん。入っても大丈夫ですか」
廊下から声がした。容の声だ。「はい、どうぞ」と安寿が言うと、容が和室に入って来た。晴れ晴れとした笑顔で容が言った。
「僕、これから東京に帰ります。飛行機の運航が再開されたので」
「そうか。容、いろいろ世話になったな。本当にありがとう。気をつけて帰れよ」
「はい。こちらこそありがとうございました。あの、航志朗さん。帰る前に僕はあなたに申しあげたいことがあります」
容の意外な言葉に航志朗は首をかしげた。
和室に安寿を残して、着替えた航志朗と容は古閑家の庭に出た。台風一過の晴れ渡った雲ひとつない青空は、一晩中ろうそくの灯火で過ごした航志朗の目にはまぶしすぎる。琥珀色の瞳を金色に輝かせて、航志朗は目を細めた。しばらく容は空を見上げて何事かを考えてから口を開いた。
「航志朗さん。昨夜、安寿さんが絵を描いているお姿を拝見して、僕はあなたに伝えたいことがあります」
怪訝そうに航志朗はうなずいた。今まで見たことがない真剣な表情で容は続けた。
「安寿さんは、凄まじい力を持っています」
「凄まじい力……」
「はい。美を生み出す凄まじい『美しい力』です。安寿さんの一番近くにいるあなたには、それがなんなのかよくわかっていらっしゃるはずだ。今の安寿さんはその力が自分のなかにあることに気づいていない。当然、その力を彼女自身でコントロールすることができない。このままでは、いつか安寿さんは、その『美しい力』に身も心も傷つけられてしまいます」
(ヴィーの曾祖母と千里さんに言われた警告の続きを聞いているようだな……)
航志朗の背筋に冷たく鋭い衝撃が走った。
「航志朗さん、安寿さんを守ってあげてください! 安寿さんを守ることができるのは、あなただけなんですから!」
突然、怒鳴りつけるように容は叫ぶと、顔を赤らめて下を向いた。
「容。おまえ、もしかして……」
やけになって吐き捨てるように容が言った。
「そうだよ。僕は安寿さんが好きなんだ! だから、心から尊敬する航志朗さんでも安寿さんを傷つけたら、一生、許さない!」
深々と一礼すると容は航志朗の前から走り去って行った。深いため息をついて航志朗は澄みきった青空を見上げた。
おにぎりをのせた盆を持った安寿は、古閑家の一階の廊下で容に出くわした。航志朗の姿は見当たらない。息を荒げた容は珍しく深刻な険しい顔をしていて、怒っているようにも見える。
(航志朗さんとけんかでもしたのかな。……まさかね)
安寿は気がつかないふりをして笑顔を作って言った。
「容さん、お部屋で朝食にしましょう。私、お茶を淹れますね」
無遠慮に容はおにぎりを一個つかむと立ったままで口に放り込んだ。目を丸くした安寿に、容はおにぎりをほおばったままで宣言した。
「安寿さん、僕、決めたんです。清美大を卒業したら、店を継ぐことにしました。だから、安寿さん。これからもずっと、僕の一番の、……お客さまになってくださいね」
ものすごく聞き取りづらいが容が言おうとしていることがわかると、心から安寿は嬉しさがあふれてきて笑顔で言った。
「はい。これからもよろしくお願いします、容さん」
ごくんと喉を鳴らしておにぎりを飲み込むと、頬を紅潮させた容は今度は妙になめらかに言った。
「もちろん、僕の大切な安寿さんには、一生、店内全品、百パーセント割引しますから!」
苦笑いしながら安寿はたしなめた。
「それはだめですよ、容さん。一生、ちゃんと百パーセント払わせてくださいね」
安寿と容は近くで顔を見合わせると肩を揺すってくすくす笑い合った。あまりにも可愛らしい安寿の笑顔を間近で見た容はもう我慢できなくなって、横から安寿をぎゅっと抱きしめた。そして、勢い余ってその頬にキスした。
それは一瞬のことだった。驚いて大きく目を見開いた安寿が顔を赤くする前に、容は安寿から離れて走り出した。
「じゃあ、安寿さん、また大学でお会いしましょう!」
振り返らずに手を振ると、容は安寿の前から去って行った。安寿は片手で容にキスされた頬を押さえてつぶやいた。
「容さん……」
やっと我に返った安寿は頬を赤らめた。