今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 「安寿。俺、お腹空いた」

 いきなり後ろから航志朗が姿を現した。安寿は胸をどきっとさせて航志朗を見上げた。

 (今の、……航志朗さんに見られちゃった?)

 気まずい思いを抱えて部屋に戻ると、航志朗は安寿に身を寄せて当然のことのように口を開けた。安寿は顔を赤らめながら、おにぎりをひと口大に割って航志朗の口に運んだ。指についた米粒を口に入れようとすると、すぐさま航志朗に舐められた。安寿は甘いため息をついた。急に思い出して急須からほうじ茶を湯呑みに注ぎ始めた安寿にすり寄って来て、航志朗は安寿を全身できつく抱きしめた。

 「ちょっと航志朗さん、危ないですよ。熱いお茶がこぼれちゃう」

 安寿の小言に構わずに、航志朗は安寿の耳に唇を這わせてささやいた。

 「安寿、生理は終わった?」

 苦笑を浮かべながら安寿は生真面目に即答した。

 「まだです」

 航志朗はがくっと安寿の肩に額をのせた。

 廊下から二人分の足音がしてきた。あわてて安寿は航志朗から離れて座り直した。

 「安寿さん、航志朗さん。おはようございます」

 ルリと五嶋だった。

 ルリは部屋に入ると正座して言った。

 「安寿さん、素晴らしい襖絵をありがとうございました。心から感謝いたします」

 うつむきかげんで安寿は恥ずかしそうに首を振って言った。

 「とんでもないです、ルリさん。私なんかがルリさんの大切なお部屋の襖に絵を描かせていただいて、本当によかったのでしょうか」

 一瞬、隣で航志朗が顔をしかめた。ルリは安寿の両肩に手を置いた。安寿はその温もりに顔を上げた。ルリは目に涙をためてとぎれとぎれに言った。

 「安寿さん。あなたは私たちを救ってくれたわ。本当に感謝してもしきれない。私、あなたにお礼がしたいの。何か欲しいものはないかしら。なんでも贈るわ。遠慮なく私におっしゃってくださらない?」

 思わず安寿は航志朗の顔を見た。航志朗はにこにこ笑っている。

 (私が、今、欲しいものって、……岸家の裏の森しかない)

 そう思いながらも安寿はルリに言った。

 「ルリさん、お礼だなんてとんでもないです。私はルリさんたちへの感謝の気持ちで絵を描いたんです。私、ここに来てとても楽しかったです。皆さんにお会いできて、本当に嬉しかったです」

 ルリは安寿の口調に来るべき別れの気配を感じ取った。

 「安寿さん……」

 安寿が航志朗を見ると、しっかりと航志朗は安寿にうなずいた。安寿は深々とルリに頭を下げた。

 「私たち、そろそろおいとまいたします。いろいろお世話になりまして、本当にありがとうございました」

 「……東京に戻られるのね」

 「はい」
 
 しばらくルリは目を閉じてうつむいていた。沈黙して何かを考えているようだった。やがて、ルリは顔を上げて言った。

 「安寿さんと航志朗さん。あなたがたに見てもらいたいものがあるの」

 廊下で正座して黙って三人を見守っていた五嶋の肩が微かに揺れた。

 ルリは五嶋に向かって静かに言った。

 「衆さん、お願い」

 「かしこまりました、ルリさま」

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