今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 静かに五嶋は立ち上がると奥の間に入って行った。がたがたと襖を外す音が三回した。不思議そうな表情で安寿はその音に耳を傾けた。

 「ルリさま、準備ができました」

 そう言い終わると五嶋は廊下に戻ってまた正座して座った。

 「どうぞ、ごらんください」

 安寿と航志朗は目を見合わせると立ち上がって奥の間に足を踏み入れた。昨晩、安寿がルリハコベの花の絵を描いた襖が壁に三枚並べて立て掛けられてある。

 「あっ」

 思わず声を出して安寿は驚いた。そこには安寿が描いたルリハコベの絵はない。三枚の裏返された襖には、墨一色で風景画が描かれている。見覚えのある風景だ。

 すぐに安寿はわかった。それは、別荘のバルコニーから見た多島海の風景だ。

 安寿も航志朗も絶句した。目の前に穏やかな海が広がっている。何もかも余計なものをそぎ落として、ただ簡素な筆跡で描かれている。

 (なんて優しい絵なの。大きな温かい手に包まれているみたい)

 安寿の頬に涙が伝った。航志朗も目を潤ませながら安寿の肩を抱いた。

 「この襖絵は兄の最後の作品なの。彼が亡くなってからしばらく経って、私が見つけたの。襖の裏側に描かれた絵だから、誰にも知られずにひっそりとここにある。この絵の存在を知っているのは、私と衆さんだけよ。それから、あなたたちもね」

 (ルリさんの大切なお兄さまの絵の表側に、私が絵を描いたなんて……)

 申しわけない気持ちで胸がいっぱいになった安寿は、顔を青ざめて肩を小刻みに震わせた。

 優しく微笑みながらルリは手を伸ばして安寿の髪を愛おしそうになでた。安寿は同じように母になでられた感触を久しぶりに思い出した。それは、安寿の身体じゅうに哀しみを満ちあふれさせる。首を傾けてルリは静かに言った。

 「そんな顔しないで、安寿さん。あなたにはその資格があるんだから」

 「『資格』ですか?」

 寂しそうにルリは微笑んだ。

 「そう。あなたのなかには『美しい力』がある。……兄と同じように」

 「『美しい力』……」

 安寿は記憶をたぐり寄せた。

 (前にも言われたことがある。そう、岸先生に)

 襖が外された押し入れの中からルリは古びた木箱を取り出した。嗅ぎ慣れたオイルの香りが漂ってくる。ルリは安寿の膝の上にそっと木箱を置いた。

 「ルリさん、これって……」

 「そう。兄が使っていた油絵の道具よ。あなたに使ってほしいの。受け取ってくれるかしら」

 大きく安寿は首を振って訴えた。

 「ルリさんにとって、とても、とても大切なものなんでしょう。私、いただくことなんてできません。絶対に」

 「安寿さん……」

 安寿とルリは木箱の前で沈黙した。その様子を黙って見守っていた航志朗が穏やかに安寿に進言した。

 「安寿、ありがたくいただこう。せっかくルリさんがおっしゃっているんだ。君がルリさんのお兄さんの道具で油絵を描けば、きっとルリさんのお兄さんへのご供養になる」

 「私、いただけません」

 肩を上げて航志朗は内心思った。

 (やれやれ、本当に安寿は頑固だよな。ルリさんのお気持ちを考えろよ)

 少し考えてから航志朗が安寿に提案した。

 「じゃあ、お借りするっていうのはどうだ、安寿。ルリさんは日本画家だから油絵の道具はお使いになられないのだろうが、君は大学で油絵を専攻している。それに、あのコーセイ・ツジが使っていた道具を使わせてもらえるなんて、君はラッキーだよ」

 「でも……」

 まだ安寿は躊躇している。

 五嶋が廊下から澄んだ声で言った。

 「私は航志朗さまのご提案に賛成です。そうすれば、安寿さまとまたお会いできますよね、ルリさま」

 「衆さんのおっしゃる通りね。では、兄の油絵の道具を安寿さんにお貸しするわ。そしてまた、ここにいらっしゃいね。航志朗さんとおふたりで。約束よ、安寿さん」

 「わかりました、ルリさん。お兄さまの大切なお道具をお借りいたします」

 そうは言ったものの、安寿は心のなかで哀しく思った。

 (でも、お返しする時は、きっと航志朗さんと一緒に来られない……)

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