今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
その頃、航志朗は急遽帰国し、東京のマンションに戻って来ていた。おとといの深夜に母から不可解な電話があった後、すぐに無理やりスケジュールを調整した。月曜日の朝にはシンガポールに戻らなければならない。航志朗は安寿のことを心の底から心配していた。母が安寿を巻き込んで何かを企んでいるのに違いないと航志朗は考えた。
(養女に迎えるって、彼女も彼女の家族も承知するわけがないだろう……)
航志朗はシャワーを浴びてから、ダークグレーのスーツに着替えた。ネクタイは締めずに首にかけたままで航志朗は考えた。画廊には個展に招待された顧客が大勢やって来るだろう。当然、彼らとの表面的な付き合いは免れない。それがどんなに退屈だとしてもだ。画家のあのつまらない風景画を大金をつぎ込んで購入する顧客たちの気がしれないが、あの画廊にとっては大切な金づるだ。認めたくはないが、今の自分にとっても。航志朗は空港のベーカリーで買ってきた固く冷えたサンドイッチを熱いコーヒーで流し込み、車を運転して黒川画廊に向かった。
道は空いてはいたが、その途中で航志朗は事故車を見た。二台のパトカーの間に、ボンネットが破損しフロントガラスにひどいひびが入った白いセダンが見えた。遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。航志朗は嫌な予感がして顔をしかめた。
車は二十分ほどで銀座に到着し、航志朗は銀座の裏通りにある黒川画廊にほど近い駐車場に車を停めた。航志朗は運転席に座ったまま、しばらく目をつむって休んだ。そして一回深いため息をついてから、車の中でネクタイを締めて駐車場を出た。
その時、突然、駐車場に面した裏通りを駆け抜けていく少女の姿が、航志朗の目に飛び込んで来た。その瞬間、航志朗と彼女が存在している空間が、水晶のように透き通ったかたまりのなかに閉じ込められた。
ふたりを取り囲む空間の時間が止まった。
それは、まぎれもなく安寿だった。安寿はベージュのワンピースをひるがえして、走って行く。航志朗はあわててそのあとを追い、大声でその愛しいひとの名前を呼んだ。
「安寿さん!」
安寿はとてもあせっていた。とにかく一刻も早く画廊に行って華鶴に会わなければならない。そして、養女になると伝えなければ。
その時、突然に自分の名前を呼ぶ聞き覚えのある声を聞き、安寿は反射的に振り返った。そして、その拍子に道路の縁石に左足を引っかけて安寿は転倒した。
最初に驚いたのは、航志朗の方だった。航志朗の目の前で安寿が倒れ落ちた。航志朗は急いで安寿のもとに駆け寄り、その身体を抱き起こした。
「大丈夫か、安寿さん!」
航志朗は大声で叫んだ。航志朗の顔は血の気が引いている。自分のせいだ。自分が不用意に安寿に声をかけたせいだ。
安寿は、突然に自分を襲った出来事に呆然となっていた。安寿はまず航志朗に抱きかかえられていることをぼんやりと意識した。服を通してでもわかる航志朗の大きくて冷たい手を感じる。そして、航志朗の厚い胸板も。その胸の鼓動は激しく打っている。
(このひとは、いつも、私の前に突然現れる……)と安寿は思った。
至近距離で航志朗の琥珀色の瞳がまっすぐに自分を見つめていることに気づいた。
(このひとの瞳は、なんて透き通っているんだろう。……怖いくらいに)と安寿は航志朗の瞳を見つめ返して思った。
航志朗は自分を見つめる安寿の視線に危うくとらわれそうになったが、(今はそれどころじゃないだろう……)と理性を無理やり引きずり出して、安寿に謝罪した。
「すまない。俺が悪かった。安寿さん、立てるか?」と言う航志朗の声に、安寿は我に返った。またたく間に羞恥心がわき起こり、あわてて安寿は航志朗から離れた。安寿の頬は真っ赤に染まっている。
「岸さん、あ、あの、大丈夫です! 立てます!」と訴えるように言って安寿は立とうとしたが、その時、左足首に激痛が走った。安寿は声を出さずに身を固くして痛みに耐えた。その様子を見てすぐに航志朗は、安寿の左足を自分の膝にのせて、注意深く靴と靴下を脱がせた。安寿の左足首は明らかに内出血をしていて、ところどころ赤紫色に腫れている。また、レギンスに開いた穴からむき出した膝頭はすりむいていて、血がしたたっている。航志朗は心底あせった。
(ひどいけがだ。とにかく早くドクターのところに連れて行かないと)
航志朗はすぐにスマートフォンをスーツの胸ポケットから取り出し、病院を検索しようとした。
その時、場違いなほど甲高く穏やかな声が、安寿と航志朗にかけられた。
「あの、どうかなさいましたか?」
同時に安寿と航志朗が顔を上げると、そこには赤い丸眼鏡をかけてえんじ色のクラシカルなスーツを着た小柄な老婦人が立っていて、心配そうにふたりをのぞき込んでいた。
「あっ、三枝さんの大奥さま!」
安寿が老婦人に気づいて言った。
航志朗はそれを聞いて思い出した。
(……三枝? ああ、三枝洋服店の社長の母親か。どこかで会ったことがあると思った)
老婦人は「あら、岸家の安寿お嬢さまじゃありませんか。まあ、大変だわ! 早くお医者さまのところに行かないと!」と大声で言い、それから航志朗の顔をまじまじと見て気づいた。
「あら、こちらは航志朗お坊っちゃん? ずいぶんとご立派になられて」
航志朗は会釈してから、老婦人に尋ねた。
「三枝さん。このあたりで彼女を診ていただける病院をご存知ないでしょうか?」
「ええ、そうねえ、山田先生のところがいいんじゃないかしら」
「山田先生、ですか?」
航志朗にとって、初めて聞く名前だった。
「山田整形外科医院よ。あそこの角を曲がってすぐそこよ。あらっ、今、何時かしら?」
老婦人はハンドバッグからスマートフォンを取り出して見た。そのスマートフォンはカラフルなクリスタルガラスでデコレーションされていてきらきらと輝いている。
「あらあら、もうすぐお昼だわ。山田先生のところ、土曜日は正午までなの。電話して開けておいてもらいましょう」と言い、慣れた様子でスマートフォンを操作して電話をかけた。
安寿は今現在の時間が正午と聞いて驚いた。
(もうそんな時間になってしまったの。私、早く画廊に行かなくちゃ!)
ひどく安寿はあせった。でも、左足がずきずきして、ものすごく痛い。一歩も動くことができない。安寿は下を向いて泣きそうになったが、必死に我慢した。
その時「安寿さん、医者に行くぞ!」と言って、航志朗は安寿の前にさっと腰を下ろして背中を向けた。いきなり目の前に大きな背中が現れて、安寿は思わずどきっとした。
(えっ! 背中に乗れってこと?)
躊躇する安寿に航志朗が強くうながした。
「歩けないだろ? 早く診てもらった方がいい」
「でも、上等なスーツが汚れてしまうし、しわになってしまいます」
安寿はなんとかして回避しようとした。
「そんなことはまったく構わない。さあ、早く行こう」
「でも……」
そんなふたりのやり取りを見守っていた老婦人が見かねて口を挟んだ。
「安寿お嬢さま。お洋服は汚れたり、しわになるものなんです。ちゃんと着て使っているっていう証拠です。きっとお洋服だって新品のきれいなままでいるより嬉しいはずですよ。それに航志朗お坊っちゃんにおんぶしてもらえるなんて、とってもうらやましいわ。私に代わってもらいたいくらいですよ。さあ、お医者さまのところに行きましょうね」
それは妙に説得力のある言葉だった。安寿は老婦人に向かって素直にうなずいた。
安寿はおずおずと航志朗の背中に身を寄せた。そして、安寿は航志朗にぐっと両腕で力強く引き寄せられて、あっという間に背負われた。声には出さなかったが、心のなかでは悲鳴をあげた。医院までお供するという老婦人を丁重に断って礼を言い、航志朗は安寿を背負って歩き出した。
老婦人は、安寿と航志朗を見送りながら思った。
(あのおふたり、もしかしてご婚約中かしら? ふふ、とてもお似合いだこと)
(養女に迎えるって、彼女も彼女の家族も承知するわけがないだろう……)
航志朗はシャワーを浴びてから、ダークグレーのスーツに着替えた。ネクタイは締めずに首にかけたままで航志朗は考えた。画廊には個展に招待された顧客が大勢やって来るだろう。当然、彼らとの表面的な付き合いは免れない。それがどんなに退屈だとしてもだ。画家のあのつまらない風景画を大金をつぎ込んで購入する顧客たちの気がしれないが、あの画廊にとっては大切な金づるだ。認めたくはないが、今の自分にとっても。航志朗は空港のベーカリーで買ってきた固く冷えたサンドイッチを熱いコーヒーで流し込み、車を運転して黒川画廊に向かった。
道は空いてはいたが、その途中で航志朗は事故車を見た。二台のパトカーの間に、ボンネットが破損しフロントガラスにひどいひびが入った白いセダンが見えた。遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。航志朗は嫌な予感がして顔をしかめた。
車は二十分ほどで銀座に到着し、航志朗は銀座の裏通りにある黒川画廊にほど近い駐車場に車を停めた。航志朗は運転席に座ったまま、しばらく目をつむって休んだ。そして一回深いため息をついてから、車の中でネクタイを締めて駐車場を出た。
その時、突然、駐車場に面した裏通りを駆け抜けていく少女の姿が、航志朗の目に飛び込んで来た。その瞬間、航志朗と彼女が存在している空間が、水晶のように透き通ったかたまりのなかに閉じ込められた。
ふたりを取り囲む空間の時間が止まった。
それは、まぎれもなく安寿だった。安寿はベージュのワンピースをひるがえして、走って行く。航志朗はあわててそのあとを追い、大声でその愛しいひとの名前を呼んだ。
「安寿さん!」
安寿はとてもあせっていた。とにかく一刻も早く画廊に行って華鶴に会わなければならない。そして、養女になると伝えなければ。
その時、突然に自分の名前を呼ぶ聞き覚えのある声を聞き、安寿は反射的に振り返った。そして、その拍子に道路の縁石に左足を引っかけて安寿は転倒した。
最初に驚いたのは、航志朗の方だった。航志朗の目の前で安寿が倒れ落ちた。航志朗は急いで安寿のもとに駆け寄り、その身体を抱き起こした。
「大丈夫か、安寿さん!」
航志朗は大声で叫んだ。航志朗の顔は血の気が引いている。自分のせいだ。自分が不用意に安寿に声をかけたせいだ。
安寿は、突然に自分を襲った出来事に呆然となっていた。安寿はまず航志朗に抱きかかえられていることをぼんやりと意識した。服を通してでもわかる航志朗の大きくて冷たい手を感じる。そして、航志朗の厚い胸板も。その胸の鼓動は激しく打っている。
(このひとは、いつも、私の前に突然現れる……)と安寿は思った。
至近距離で航志朗の琥珀色の瞳がまっすぐに自分を見つめていることに気づいた。
(このひとの瞳は、なんて透き通っているんだろう。……怖いくらいに)と安寿は航志朗の瞳を見つめ返して思った。
航志朗は自分を見つめる安寿の視線に危うくとらわれそうになったが、(今はそれどころじゃないだろう……)と理性を無理やり引きずり出して、安寿に謝罪した。
「すまない。俺が悪かった。安寿さん、立てるか?」と言う航志朗の声に、安寿は我に返った。またたく間に羞恥心がわき起こり、あわてて安寿は航志朗から離れた。安寿の頬は真っ赤に染まっている。
「岸さん、あ、あの、大丈夫です! 立てます!」と訴えるように言って安寿は立とうとしたが、その時、左足首に激痛が走った。安寿は声を出さずに身を固くして痛みに耐えた。その様子を見てすぐに航志朗は、安寿の左足を自分の膝にのせて、注意深く靴と靴下を脱がせた。安寿の左足首は明らかに内出血をしていて、ところどころ赤紫色に腫れている。また、レギンスに開いた穴からむき出した膝頭はすりむいていて、血がしたたっている。航志朗は心底あせった。
(ひどいけがだ。とにかく早くドクターのところに連れて行かないと)
航志朗はすぐにスマートフォンをスーツの胸ポケットから取り出し、病院を検索しようとした。
その時、場違いなほど甲高く穏やかな声が、安寿と航志朗にかけられた。
「あの、どうかなさいましたか?」
同時に安寿と航志朗が顔を上げると、そこには赤い丸眼鏡をかけてえんじ色のクラシカルなスーツを着た小柄な老婦人が立っていて、心配そうにふたりをのぞき込んでいた。
「あっ、三枝さんの大奥さま!」
安寿が老婦人に気づいて言った。
航志朗はそれを聞いて思い出した。
(……三枝? ああ、三枝洋服店の社長の母親か。どこかで会ったことがあると思った)
老婦人は「あら、岸家の安寿お嬢さまじゃありませんか。まあ、大変だわ! 早くお医者さまのところに行かないと!」と大声で言い、それから航志朗の顔をまじまじと見て気づいた。
「あら、こちらは航志朗お坊っちゃん? ずいぶんとご立派になられて」
航志朗は会釈してから、老婦人に尋ねた。
「三枝さん。このあたりで彼女を診ていただける病院をご存知ないでしょうか?」
「ええ、そうねえ、山田先生のところがいいんじゃないかしら」
「山田先生、ですか?」
航志朗にとって、初めて聞く名前だった。
「山田整形外科医院よ。あそこの角を曲がってすぐそこよ。あらっ、今、何時かしら?」
老婦人はハンドバッグからスマートフォンを取り出して見た。そのスマートフォンはカラフルなクリスタルガラスでデコレーションされていてきらきらと輝いている。
「あらあら、もうすぐお昼だわ。山田先生のところ、土曜日は正午までなの。電話して開けておいてもらいましょう」と言い、慣れた様子でスマートフォンを操作して電話をかけた。
安寿は今現在の時間が正午と聞いて驚いた。
(もうそんな時間になってしまったの。私、早く画廊に行かなくちゃ!)
ひどく安寿はあせった。でも、左足がずきずきして、ものすごく痛い。一歩も動くことができない。安寿は下を向いて泣きそうになったが、必死に我慢した。
その時「安寿さん、医者に行くぞ!」と言って、航志朗は安寿の前にさっと腰を下ろして背中を向けた。いきなり目の前に大きな背中が現れて、安寿は思わずどきっとした。
(えっ! 背中に乗れってこと?)
躊躇する安寿に航志朗が強くうながした。
「歩けないだろ? 早く診てもらった方がいい」
「でも、上等なスーツが汚れてしまうし、しわになってしまいます」
安寿はなんとかして回避しようとした。
「そんなことはまったく構わない。さあ、早く行こう」
「でも……」
そんなふたりのやり取りを見守っていた老婦人が見かねて口を挟んだ。
「安寿お嬢さま。お洋服は汚れたり、しわになるものなんです。ちゃんと着て使っているっていう証拠です。きっとお洋服だって新品のきれいなままでいるより嬉しいはずですよ。それに航志朗お坊っちゃんにおんぶしてもらえるなんて、とってもうらやましいわ。私に代わってもらいたいくらいですよ。さあ、お医者さまのところに行きましょうね」
それは妙に説得力のある言葉だった。安寿は老婦人に向かって素直にうなずいた。
安寿はおずおずと航志朗の背中に身を寄せた。そして、安寿は航志朗にぐっと両腕で力強く引き寄せられて、あっという間に背負われた。声には出さなかったが、心のなかでは悲鳴をあげた。医院までお供するという老婦人を丁重に断って礼を言い、航志朗は安寿を背負って歩き出した。
老婦人は、安寿と航志朗を見送りながら思った。
(あのおふたり、もしかしてご婚約中かしら? ふふ、とてもお似合いだこと)