今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿と航志朗は別荘に戻った。森の小道も別荘の庭も台風が吹き飛ばした小枝や葉がたくさん落ちていた。
古閑家の別荘で過ごす最後の夜だ。どちらからともなくバルコニーに出て、昨夜とは打って変わった穏やかな海の上で輝く星空を見上げた。航志朗は安寿を後ろから覆うようにしっかりと抱きしめた。夜風から安寿を守るために。もちろんそれだけではない。自分から安寿が離れて行かないように。
ひとりごとをつぶやくように安寿が口に出した。
「海って、人生そのものみたい。静かな時もどうしようもなく荒れる時もある。でも、海は、海。今、この目の前にただ存在している」
まっすぐに航志朗は安寿の瞳を見つめた。
「そうだな。君も俺も、今、ここにいる。ずっと一緒に」
そう言うと航志朗は安寿の顎を引き寄せてキスした。
ベッドの上でもふたりは抱き合って何回も唇を重ねた。もう何も言葉を発しない。耳に入ってくるのは息継ぎの吸気の音だけだ。ただ互いの唇の感触を感じながら両腕を回して全身を密着させる。パジャマを着たままで互いの温もりを捧げ合う。ゆっくりと熊本での最後の夜が過ぎていった。
熊本を去る朝、日の出前にふたりは手をつないで海辺に下りて行った。砂浜にしゃがんで安寿は目の前の多島海の風景を黙って眺めた。ルリの兄が描いたあの襖絵を瞳の裏に重ねながら。隣に座った航志朗は安寿の肩に手を回して抱き寄せた。素直に航志朗に寄り掛かり、波の音に耳をすませて、だんだん明けていく空を見上げて安寿が言った。
「航志朗さん。私、ずっと間違っていた」
肩に回された航志朗の腕をきつく握って、安寿はぽつんとその言葉を砂の上に落とした。一瞬、航志朗は胸をどきっとさせた。
「間違っていた?」
「はい。この春からずっと」
張りつめたまなざしで安寿を見ると航志朗は尋ねた。
「何を間違っていたんだ、安寿?」
「私、絵を美しく描かなくちゃって思っていた。誰が見ても美しく見えるように」
「君らしくないな。それだと、絵を描いていて楽しくないだろ?」
「そう、航志朗さんの言う通りです。本当は全然楽しくなかった。こんな気持ちになるのは初めてです。私、絵を描くことが嫌いになりそうだった。でも……」
「でも?」
「ここへ来て、ルリさんや万里絵ちゃんや、絵画教室の子どもたちが絵を描く姿を見て、自分の間違いに気づいたんです」
航志朗は安寿の髪を優しくなでて顔をうずめた。遠い沖を見つめながら安寿は力強い口調で言った。
「私は、私の絵を自由に描く。私の思うままに……」
顔を離して航志朗は言い切った。
「その君の絵が、俺は好きだ」
安寿は向き直って一途に航志朗を見つめた。そこに確かに存在する航志朗の琥珀色の瞳が力強い光で輝いた。いたずらっぽく微笑みながら安寿は航志朗に尋ねた。
「航志朗さん、……私のことは?」
目を細めて航志朗が言った。
「もちろん、俺は君を愛している。何回でも無量大数回でも言う。俺は君を愛している」
安寿は嬉しそうな笑顔をひた隠すように下を向いた。
「……安寿は?」
そう言うと、航志朗は安寿の顎を両手で持ち上げてもう一度訊いた。
「安寿、……俺のことは?」
航志朗の目つきは真剣だ。一瞬、安寿は哀しそうな表情を浮かべたが、航志朗の肩に腕を回して思いきり唇を重ねた。ふたりはきつく抱き合って互いを激しく求め合う。息が詰まり苦しくなって唇を離す。肩を揺らして呼吸を荒げたふたりは目と目を見合わせると、うめくように航志朗が叫んだ。
「安寿、東京に帰ったら、すぐに結婚式を挙げよう、ふたりきりで!」
心のなかで安寿は叫んだ。
(結婚式を挙げるなんて、絶対にできない! あと二年七か月以内には、必ず離婚することになるのに……)
安寿はうつむいて哀しそうに言った。
「それはできません……」
「どうして? どうしてなんだ、安寿?」
予想外の返事に航志朗は混乱して取り乱した。安寿の存在が急に遠くなったような恐怖感が襲ってくる。身を凍らせる焦燥感にかられて航志朗は安寿をきつく抱きしめた。息ができなくなるほど力を込める。苦しくなって安寿は顔をしかめた。だんだん気が遠くなっていく。
「こ、航志朗さん……」
顔色を青ざめた安寿に気づいてあわてて航志朗は腕の力を弱めた。くらっとめまいがして安寿は航志朗にぐったりともたれかかった。
「ごめん。安寿、ごめん……」
声を震わせて航志朗はひたすら謝った。安寿はゆっくりと首を振った。表情を歪めて航志朗は安寿の顔をのぞき込んだ。目を閉じた安寿は小声で訴えた。
「いきなり結婚式だなんて。私、すぐには心の準備ができません」
「……そうか」
今度は優しく安寿を航志朗は抱きしめた。
古閑家の別荘で過ごす最後の夜だ。どちらからともなくバルコニーに出て、昨夜とは打って変わった穏やかな海の上で輝く星空を見上げた。航志朗は安寿を後ろから覆うようにしっかりと抱きしめた。夜風から安寿を守るために。もちろんそれだけではない。自分から安寿が離れて行かないように。
ひとりごとをつぶやくように安寿が口に出した。
「海って、人生そのものみたい。静かな時もどうしようもなく荒れる時もある。でも、海は、海。今、この目の前にただ存在している」
まっすぐに航志朗は安寿の瞳を見つめた。
「そうだな。君も俺も、今、ここにいる。ずっと一緒に」
そう言うと航志朗は安寿の顎を引き寄せてキスした。
ベッドの上でもふたりは抱き合って何回も唇を重ねた。もう何も言葉を発しない。耳に入ってくるのは息継ぎの吸気の音だけだ。ただ互いの唇の感触を感じながら両腕を回して全身を密着させる。パジャマを着たままで互いの温もりを捧げ合う。ゆっくりと熊本での最後の夜が過ぎていった。
熊本を去る朝、日の出前にふたりは手をつないで海辺に下りて行った。砂浜にしゃがんで安寿は目の前の多島海の風景を黙って眺めた。ルリの兄が描いたあの襖絵を瞳の裏に重ねながら。隣に座った航志朗は安寿の肩に手を回して抱き寄せた。素直に航志朗に寄り掛かり、波の音に耳をすませて、だんだん明けていく空を見上げて安寿が言った。
「航志朗さん。私、ずっと間違っていた」
肩に回された航志朗の腕をきつく握って、安寿はぽつんとその言葉を砂の上に落とした。一瞬、航志朗は胸をどきっとさせた。
「間違っていた?」
「はい。この春からずっと」
張りつめたまなざしで安寿を見ると航志朗は尋ねた。
「何を間違っていたんだ、安寿?」
「私、絵を美しく描かなくちゃって思っていた。誰が見ても美しく見えるように」
「君らしくないな。それだと、絵を描いていて楽しくないだろ?」
「そう、航志朗さんの言う通りです。本当は全然楽しくなかった。こんな気持ちになるのは初めてです。私、絵を描くことが嫌いになりそうだった。でも……」
「でも?」
「ここへ来て、ルリさんや万里絵ちゃんや、絵画教室の子どもたちが絵を描く姿を見て、自分の間違いに気づいたんです」
航志朗は安寿の髪を優しくなでて顔をうずめた。遠い沖を見つめながら安寿は力強い口調で言った。
「私は、私の絵を自由に描く。私の思うままに……」
顔を離して航志朗は言い切った。
「その君の絵が、俺は好きだ」
安寿は向き直って一途に航志朗を見つめた。そこに確かに存在する航志朗の琥珀色の瞳が力強い光で輝いた。いたずらっぽく微笑みながら安寿は航志朗に尋ねた。
「航志朗さん、……私のことは?」
目を細めて航志朗が言った。
「もちろん、俺は君を愛している。何回でも無量大数回でも言う。俺は君を愛している」
安寿は嬉しそうな笑顔をひた隠すように下を向いた。
「……安寿は?」
そう言うと、航志朗は安寿の顎を両手で持ち上げてもう一度訊いた。
「安寿、……俺のことは?」
航志朗の目つきは真剣だ。一瞬、安寿は哀しそうな表情を浮かべたが、航志朗の肩に腕を回して思いきり唇を重ねた。ふたりはきつく抱き合って互いを激しく求め合う。息が詰まり苦しくなって唇を離す。肩を揺らして呼吸を荒げたふたりは目と目を見合わせると、うめくように航志朗が叫んだ。
「安寿、東京に帰ったら、すぐに結婚式を挙げよう、ふたりきりで!」
心のなかで安寿は叫んだ。
(結婚式を挙げるなんて、絶対にできない! あと二年七か月以内には、必ず離婚することになるのに……)
安寿はうつむいて哀しそうに言った。
「それはできません……」
「どうして? どうしてなんだ、安寿?」
予想外の返事に航志朗は混乱して取り乱した。安寿の存在が急に遠くなったような恐怖感が襲ってくる。身を凍らせる焦燥感にかられて航志朗は安寿をきつく抱きしめた。息ができなくなるほど力を込める。苦しくなって安寿は顔をしかめた。だんだん気が遠くなっていく。
「こ、航志朗さん……」
顔色を青ざめた安寿に気づいてあわてて航志朗は腕の力を弱めた。くらっとめまいがして安寿は航志朗にぐったりともたれかかった。
「ごめん。安寿、ごめん……」
声を震わせて航志朗はひたすら謝った。安寿はゆっくりと首を振った。表情を歪めて航志朗は安寿の顔をのぞき込んだ。目を閉じた安寿は小声で訴えた。
「いきなり結婚式だなんて。私、すぐには心の準備ができません」
「……そうか」
今度は優しく安寿を航志朗は抱きしめた。