今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第20章 黒い血の邂逅
第1節
清華美術大学の二年次の後期が始まってから、早くも一か月が過ぎた。今朝もいつものように岸家の台所にやって来た咲に安寿は明るい笑顔で声をかけた。
「咲さん、おはようございます。いってきます」
「安寿さま、いってらっしゃいませ。今日もよい一日をお過ごしくださいませ」
「咲さんも、よい一日をお過ごしくださいね」
にこにこと安寿と咲は微笑み合った。もう咲は安寿のことが可愛くて仕方がない。手を伸ばして安寿を抱きしめたくなるのをいつも我慢しているほどだ。今年の夏に熊本と北海道で航志朗と一か月も一緒に過ごしてきた安寿に、咲はどうしようもなく期待をふくらませている。
(おふたりは、安寿さまが大学をご卒業されてからご結婚されるのかしら。一日でも早くご結婚されるといいのに。それに、おふたりの赤ちゃんのお顔が早く見たいわ)
今日も安寿は大きなキャンバスを抱えて大学に向かった。電車に乗ると安寿は大あくびをした。あわてて口を手で押さえると車両のドアの前で安寿は空を見上げた。羊の群れが浮かんでいるような雲が広がっている。季節が変わったのだ。
安寿は結婚指輪を右手でそっとなでた。八月の終わりに航志朗と北海道の新千歳国際空港で別れてから、隣に航志朗がいないことが寂しくてたまらない。
空の彼方へ飛び立って行った航志朗と別れて、再び東京へと向かった安寿は新幹線の座席でひとりぼっちになってしまったことを痛感した。安寿は麦わら帽子を深く被り、ずっと声を出さずに泣いていた。乗客が少ないグリーン車に乗ることを選んで正解だった。今回だけは贅沢ではない。東京に到着するまでに、このとめどなくあふれてくる涙を全部流してしまおうと思って、その時間を買ったのだ。
夏の長期休暇の最後の夜は、新千歳空港国際線ターミナルに直結したホテルにふたりで泊まった。航志朗が最上階のスイートルームを予約した。一晩中、ふたりはベッドの上で互いを求めて何度も抱き合った。夜が明けたら離れ離れになってしまうことが信じられなかった。
翌朝、朝食のルームサービスを注文したが、安寿は食欲がなくてカットフルーツを少し口にしただけだった。
国際線のチェックインカウンターに向かう前に、きつく肩を抱かれながら航志朗に言われた。
「どうして俺たちは離れなければならないんだ。こんなに愛し合っているのに。安寿、俺はシンガポールに君と一緒に行きたい」
安寿は黙って下を向くしかなかった。出発口の前で人目を気にせずにふたりはまたきつく抱き合った。
「航志朗さん、……航志朗さん!」
航志朗の腕の中で安寿は何回も航志朗の名前を呼んだ。航志朗はつらそうに声を絞り出して安寿に言い聞かせた。
「安寿、君を心から愛している。すぐに君のもとに帰って来るから、東京で待っていてくれ」
両目を真っ赤にさせて安寿は大きくうなずいて言った。
「はい。私、あなたを待っています、航志朗さん」
一か月間も航志朗と一緒に過ごした夏の日々はもう過去に流されていった。安寿は自らの立ち位置を確認する。
そう、私にはやらなければならないことがある。黒川家の襖絵を完成させるのだ。航志朗と本当に別れる日までに。
「咲さん、おはようございます。いってきます」
「安寿さま、いってらっしゃいませ。今日もよい一日をお過ごしくださいませ」
「咲さんも、よい一日をお過ごしくださいね」
にこにこと安寿と咲は微笑み合った。もう咲は安寿のことが可愛くて仕方がない。手を伸ばして安寿を抱きしめたくなるのをいつも我慢しているほどだ。今年の夏に熊本と北海道で航志朗と一か月も一緒に過ごしてきた安寿に、咲はどうしようもなく期待をふくらませている。
(おふたりは、安寿さまが大学をご卒業されてからご結婚されるのかしら。一日でも早くご結婚されるといいのに。それに、おふたりの赤ちゃんのお顔が早く見たいわ)
今日も安寿は大きなキャンバスを抱えて大学に向かった。電車に乗ると安寿は大あくびをした。あわてて口を手で押さえると車両のドアの前で安寿は空を見上げた。羊の群れが浮かんでいるような雲が広がっている。季節が変わったのだ。
安寿は結婚指輪を右手でそっとなでた。八月の終わりに航志朗と北海道の新千歳国際空港で別れてから、隣に航志朗がいないことが寂しくてたまらない。
空の彼方へ飛び立って行った航志朗と別れて、再び東京へと向かった安寿は新幹線の座席でひとりぼっちになってしまったことを痛感した。安寿は麦わら帽子を深く被り、ずっと声を出さずに泣いていた。乗客が少ないグリーン車に乗ることを選んで正解だった。今回だけは贅沢ではない。東京に到着するまでに、このとめどなくあふれてくる涙を全部流してしまおうと思って、その時間を買ったのだ。
夏の長期休暇の最後の夜は、新千歳空港国際線ターミナルに直結したホテルにふたりで泊まった。航志朗が最上階のスイートルームを予約した。一晩中、ふたりはベッドの上で互いを求めて何度も抱き合った。夜が明けたら離れ離れになってしまうことが信じられなかった。
翌朝、朝食のルームサービスを注文したが、安寿は食欲がなくてカットフルーツを少し口にしただけだった。
国際線のチェックインカウンターに向かう前に、きつく肩を抱かれながら航志朗に言われた。
「どうして俺たちは離れなければならないんだ。こんなに愛し合っているのに。安寿、俺はシンガポールに君と一緒に行きたい」
安寿は黙って下を向くしかなかった。出発口の前で人目を気にせずにふたりはまたきつく抱き合った。
「航志朗さん、……航志朗さん!」
航志朗の腕の中で安寿は何回も航志朗の名前を呼んだ。航志朗はつらそうに声を絞り出して安寿に言い聞かせた。
「安寿、君を心から愛している。すぐに君のもとに帰って来るから、東京で待っていてくれ」
両目を真っ赤にさせて安寿は大きくうなずいて言った。
「はい。私、あなたを待っています、航志朗さん」
一か月間も航志朗と一緒に過ごした夏の日々はもう過去に流されていった。安寿は自らの立ち位置を確認する。
そう、私にはやらなければならないことがある。黒川家の襖絵を完成させるのだ。航志朗と本当に別れる日までに。