今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
その時、航志朗はホテルの部屋のベッドで眠っていた。航志朗がくるまったキャメルのブランケットの上に微かに朝の気配がこぼれ落ちてきた。
現地時間は午前五時。今、航志朗はパリに滞在している。航志朗は寝返りを打ってうつぶせになると、他人行儀な硬いシーツの上に手を這わせた。まったく手ごたえはなかった。まぶたの裏に何の生きものも存在しない空虚な地平線を映し出す。目を閉じたままで切なげに航志朗はつぶやいた。
「安寿……」
薄く目を開いて周りを見回したが、もちろんベッドには誰もいない。航志朗は軽くため息をつくとブランケットを引っぱり上げて、無理やりまた無意識の世界へと戻って行った。
昼食を一人でとった安寿がアトリエに戻って来た。今日の昼食のメニューは、咲特製のカツサンドだった。厚めにスライスされた全粒粉の食パンに切り込みを入れて、その中に揚げたてのチキンカツと千切りキャベツが入っていた。着物姿の安寿が食べやすいように咲が工夫を凝らしたのだ。肘掛け椅子に座った安寿は帯をさすった。
(帯がきつい……。咲さんのサンドイッチがおいしくて、ついたくさん食べすぎちゃった)
岸もアトリエに戻って来た。そっと安寿は岸の顔色をうかがったが、岸はいつもの穏やかな微笑みを向けてきた。肩を落として安寿はひと呼吸した。
その数時間後、メトロを降りた航志朗は、カルーゼル・デュ・ルーブルのフードコートで軽く朝食をとった。すでに「逆さピラミッド」の横には長蛇の列ができている。奥にはルーブル美術館の入口がある。軽くため息をついて、航志朗はその列に並んだ。航志朗の前も後ろも世界中からやって来た観光客ばかりだ。ざわざわと多言語が耳に入ってくる。そのほとんどの会話が頭のなかの言語脳でそのまま意味を理解できてしまう。いちいち母語に翻訳したりはしない。それはビジネスの上では強力なアドバンテージではあるが、疲れている時ほど聞き流そうにも聞き流せないのがやっかいだ。当然のことだが、そのどれもがたわいもないプライベートなおしゃべりだ。航志朗は思いきり顔をしかめた。
その時、思いがけず初々しく弾んだ日本語が耳に飛び込んできた。
「もうすぐ、あの『モナリザ』が見られるのね! 私、すっごく楽しみー!」
「そうだね。新婚旅行にフランスを選んで大正解だったね!」
ダークブラウンに染めた長い髪の日本人女性が、隣りの夫らしき男に腕を回してしがみついている。彼女の左手の薬指にはめられた真新しい結婚指輪が光った。
思わず航志朗は肩を落として思った。
(今、俺の隣に彼女がいてくれたら、長い待ち時間なんてまったく苦にもならなかったんだろうな。安寿、君は、今、あのアトリエで父のモデルになっているのか)
ルーブル美術館に入った航志朗は、真っ先に「ダリュの階段踊り場」に向かった。混雑している階段を一歩一歩登って行く。やがて、天窓から降り注ぐ光を浴びた『サモトラケのニケ』が見えてきた。二十年ぶりに会うギリシャの女神は、まとった薄衣に風をはらませながら優雅なひだを寄せ、再び美しい翼を広げて航志朗の目の前に降り立った。だが、安寿と出会ってしまった航志朗には、そのかつて感じたこの世のものではない美の迫力が色あせて見えた。
(もう二千二百年以上も経っているんだ。今の俺にとっては、安寿だけがこの世の美しさのすべてだ)
他の観光客と同じように航志朗はスマートフォンにその姿を収めた。そして何のメッセージも添付せずに安寿のメールアドレスにその画像を送信した。
現地時間は午前五時。今、航志朗はパリに滞在している。航志朗は寝返りを打ってうつぶせになると、他人行儀な硬いシーツの上に手を這わせた。まったく手ごたえはなかった。まぶたの裏に何の生きものも存在しない空虚な地平線を映し出す。目を閉じたままで切なげに航志朗はつぶやいた。
「安寿……」
薄く目を開いて周りを見回したが、もちろんベッドには誰もいない。航志朗は軽くため息をつくとブランケットを引っぱり上げて、無理やりまた無意識の世界へと戻って行った。
昼食を一人でとった安寿がアトリエに戻って来た。今日の昼食のメニューは、咲特製のカツサンドだった。厚めにスライスされた全粒粉の食パンに切り込みを入れて、その中に揚げたてのチキンカツと千切りキャベツが入っていた。着物姿の安寿が食べやすいように咲が工夫を凝らしたのだ。肘掛け椅子に座った安寿は帯をさすった。
(帯がきつい……。咲さんのサンドイッチがおいしくて、ついたくさん食べすぎちゃった)
岸もアトリエに戻って来た。そっと安寿は岸の顔色をうかがったが、岸はいつもの穏やかな微笑みを向けてきた。肩を落として安寿はひと呼吸した。
その数時間後、メトロを降りた航志朗は、カルーゼル・デュ・ルーブルのフードコートで軽く朝食をとった。すでに「逆さピラミッド」の横には長蛇の列ができている。奥にはルーブル美術館の入口がある。軽くため息をついて、航志朗はその列に並んだ。航志朗の前も後ろも世界中からやって来た観光客ばかりだ。ざわざわと多言語が耳に入ってくる。そのほとんどの会話が頭のなかの言語脳でそのまま意味を理解できてしまう。いちいち母語に翻訳したりはしない。それはビジネスの上では強力なアドバンテージではあるが、疲れている時ほど聞き流そうにも聞き流せないのがやっかいだ。当然のことだが、そのどれもがたわいもないプライベートなおしゃべりだ。航志朗は思いきり顔をしかめた。
その時、思いがけず初々しく弾んだ日本語が耳に飛び込んできた。
「もうすぐ、あの『モナリザ』が見られるのね! 私、すっごく楽しみー!」
「そうだね。新婚旅行にフランスを選んで大正解だったね!」
ダークブラウンに染めた長い髪の日本人女性が、隣りの夫らしき男に腕を回してしがみついている。彼女の左手の薬指にはめられた真新しい結婚指輪が光った。
思わず航志朗は肩を落として思った。
(今、俺の隣に彼女がいてくれたら、長い待ち時間なんてまったく苦にもならなかったんだろうな。安寿、君は、今、あのアトリエで父のモデルになっているのか)
ルーブル美術館に入った航志朗は、真っ先に「ダリュの階段踊り場」に向かった。混雑している階段を一歩一歩登って行く。やがて、天窓から降り注ぐ光を浴びた『サモトラケのニケ』が見えてきた。二十年ぶりに会うギリシャの女神は、まとった薄衣に風をはらませながら優雅なひだを寄せ、再び美しい翼を広げて航志朗の目の前に降り立った。だが、安寿と出会ってしまった航志朗には、そのかつて感じたこの世のものではない美の迫力が色あせて見えた。
(もう二千二百年以上も経っているんだ。今の俺にとっては、安寿だけがこの世の美しさのすべてだ)
他の観光客と同じように航志朗はスマートフォンにその姿を収めた。そして何のメッセージも添付せずに安寿のメールアドレスにその画像を送信した。