今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 鎌倉駅に到着すると、改札口で黒川が待ち構えていた。無言で安寿は頭を下げると、黒川の後ろをついて行った。駅前のホテルの地下駐車場に停めてあったダークグレーの車の後部座席に乗り込む。ずっと安寿は下を向いたままだ。運転席に座った黒川はバックミラーを見ながら言った。

 「安寿さん、顔色が悪いな。もしかして朝食を食べていないとか。ホテルのレストランで食べて行くかい。もちろん部屋を取ってルームサービスでもいいけれど」

 冷ややかに安寿は答えた。

 「けっこうです」

 ハンドルを握りながら黒川は肩をすくませた。

 黒川家に到着した。車を降りると肌に触れる空気がひんやりとしている。屋敷を取り囲む樹々はすでに赤や黄色に色づいている。身を縮こまらせて安寿は両手をこすり合わせた。いつものように敷地内には人けがない。脱いだレースアップシューズをきちんと揃えると、まっすぐに奥の広間に向かった。安寿は広間の中心に正座すると目を閉じて、ただひたすらに心を筆先に集中させた。

 頭のかたすみに航志朗の姿を少しでも思い浮かべただけで、安寿の心はすぐにぶれる。頭を振ってから安寿は何回も深呼吸をした。
 
 (絶対にあのひとに認められる美しい絵を描かなくちゃ……)

 すぐに安寿は思い直す。

 (違う。そうじゃない。私は、私の絵を描くだけでしょ)

 そう自分に言い聞かせると安寿は目を開けて画筆を握った。

 まだ安寿は骨書をしている。墨で森の輪郭線を引く。即興でひたすら描き続ける。一筆でさえも失敗は許されない。広間の空気は張りつめている。耳で聞こえる範囲をはるかに超えた高音が鳴り響いている。

 黒川は画筆をふるう安寿の姿を静かに見つめていた。それは、まばたきをするのを忘れたようなまなざしだった。安寿の画筆は襖の表面をひたすら走って行く。安寿は自分の身体が墨色の曲線の波に絡めとられて溺れていくように感じたが、必死に画筆を握ってそれに耐えた。
 
 陽が落ちる時間が早くなってきた。黒川が運転する車で鎌倉駅までやって来ると、黙ったままで安寿は頭を下げて車を降りた。

 別れ際に黒川が言った。

 「安寿さん。また明日、大学で」

 それは黒川の定番のセリフになった。安寿は帰途に着くと、急に空腹を感じた。毎回、昼食は黒川がデリバリーを注文してくれる。いつも一人分だ。それに関しては、なんの感想も持たないことにした。

 岸家に向かう電車に乗ると、いつも安寿は駅のコンビニエンスストアで買った板チョコレートをかじる。その甘さに長い一日が終わったことを思い知った。岸家にたどり着くと、咲が作り置きしておいてくれた夕食をレンジアップして食べてから風呂に入った。安寿は湯船の中でうとうとしてから髪をドライヤーで乾かして自室に戻った。それから、安寿は大学のレポートを書いたり、課題作品に手をつける。

 もうとっくに日付は変わっている。本当は自分の個人的な作品を描く時間が必要だ。少しでも多くの作品を制作して、作品集(ポートフォリオ)を作らなければならない。来年の今頃には、就職活動が始まっているのだ。

 (時間がない。……本当に)

 安寿はベッドの上にあおむけになった。目を閉じると航志朗の姿がまぶたの裏に浮かんでくる。航志朗は自分に手を差し伸べてくる。安寿はその手を握った。幻の航志朗の手も冷たかった。そのまま安寿は深い眠りに落ちていった。手の指に油絵具をつけたままで。
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