今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 航志朗に背負われた安寿は、断続的に続く左足首と膝の痛みを他人事のように感じていた。それよりも胸がどきどきして頬が熱くてたまらない。安寿の靴を持ちながら航志朗はスマートフォンで医院の情報を見ながら歩いていた。

 たまらずに安寿は航志朗に話しかけた。

 「あの、岸さん、重くないですか?」

 航志朗は安寿をちらっと見て、冗談半分に言った。

 「ああ、重いな」

 その言葉に安寿はさらに拍車をかけて恥ずかしくなり、居ても立ってもいられずに早く降ろしてほしいと思ったが、今はどうしようもない。航志朗は安寿を背負い直して「もっとしっかり俺につかまってくれないか。その方が俺は楽だ」と頼んだ。

 安寿は「はい。すいません」と言って、言われた通り航志朗の首に回した腕に力を込めた。強くしがみつかれた航志朗は背中に安寿の胸のふくらみを感じてしまい、思わず顔を赤らめた。

 (俺は彼女に大けがさせておいて、内心喜んでいるみたいじゃないか)

 安寿と航志朗は五分ほどで山田ビルの前に着いた。六階建ての新しいビルのフロア案内板には、山田がつく店舗名が並んでいる。その一階が山田整形外科医院だ。医院の自動ドアが開くと白髪交じりで小太りの山田医師が待合室の椅子に腰かけて待っていた。
 
 「岸さんですね? さあ、こちらへ。三枝さんからうかがっていますよ。大変でしたね」と山田医師は言って、ふたりを診察室に案内した。航志朗は安寿を注意深く診察室のベッドの上に降ろした。安寿はすぐに診察を受けてレントゲンを撮った。診断結果は捻挫だった。山田医師から、痛みがとれるまで三日間はくれぐれも安静にするようにと言われた。
 
 航志朗は有無を言わさずにまた安寿を背負った。とりあえず駐車してある自分の車に行こうと言って、ゆっくりと歩き出した。山田医師の診察を受けてから急に安寿は疲れを感じて、はからずもぐったりと航志朗の背中に寄りかかってしまった。目を閉じた安寿は、航志朗の匂いを感じた。

 (本当に、このひとは不思議な匂いがする。……いい匂い。ほっとするような)

 そして、また安寿は思った。

 (なんて大きな背中なの。お父さんの背中って、こんな感じなのかな)

 なんだか安心して安寿は眠くなってしまった。

 駐車場に着くと航志朗は安寿を慎重に後部座席に座らせた。そして、ここで少し待っていてと言って、航志朗は裏通りに走って出て行った。安寿は時間を調べようと黒革のショルダーバッグを開けたが、携帯を家に忘れてきてしまったことに気づいた。身体を傾けて運転席の前の時計をを見ると、午後一時すぎになっていた。心の底から安寿はあせった。

 (五時までには家に帰らなくちゃ。ゆっくりとしか歩けないから、早めに帰らないと)

 航志朗が大きい紙袋を抱えて戻って来た。「喉が渇いたんじゃないか?」と言って、航志朗はスリーブがついた温かいペーパーカップを安寿に手渡した。

 「ほうじ茶だ。けがしているから、カフェインは避けたほうがいいだろう」

 「岸さん、いろいろありがとうございます」と頭を下げながら言って、安寿はひと口飲んでひと息ついた。

 (このひとは、案外優しいひとなのかもしれない)とひそかに安寿は思った。

 「君の好みがわからないから、いろいろ買ってきた。好きなの選んで」と言って、航志朗は紙袋を安寿に手渡した。ずっしりと重い。開けてみると、キッシュやイングリッシュマフィン、数種類のドーナツ、スコーン、シナモンロールが入っている。焼きたての甘い香りがふわっと車内に漂った。
 
 思わず安寿は航志朗を申しわけなさそうに見た。「いいから、遠慮するなよ」と航志朗は軽く微笑んで言った。安寿は「すいません。では、いただきます」と言ってシナモンロールを取り、外側からくるくるとはがしながら食べ始めた。安寿は甘くておいしいと心から思った。

 (そうか。彼女、シナモンロールが好きなのか)

 おいしそうに食べる安寿を見ながらドリップコーヒーを飲み、航志朗の方はチョコチップ入りのチョコレートドーナツを取ってかじった。それからキッシュとイングリッシュマフィンをふたりは半分に分けて食べた。お腹がいっぱいになった安寿は少し元気が出てきた。

 包帯が巻かれた安寿の足を見て、航志朗は心がひどく痛んだ。

 (三日間は安静か。俺が当分の間、彼女の学校の送り迎えをするか)

 航志朗は自分のスケジュール調整を考え始めた。

 そして、ふと航志朗は疑問に思い、安寿に尋ねた。

 「そういえば、君は黒川画廊に向かっていたのか? ずいぶん急いでいたけれど」

 その言葉に安寿は大事な目的を思い出した。安寿はあわてて航志朗に訊いた。

 「今、何時ですか?」 

 「ん? 二時前だけど、どうした?」

 「あ、あの、私……」と安寿は言いかけて、じっと航志朗を見て気づいた。

 (そういえば、このひと、華鶴さんの息子さんだった。私が養女になったら、このひとは私のお兄さんになるんだ。このひとは、私が岸家の養女になろうとしていることを知っているの? それに、もし私が養女になったら、どう思うんだろう?)

 「あの、私、華鶴さんに早く申しあげたいことがあって……」と安寿は言って、下を向いた。心なしか顔が青ざめている。
 
 航志朗はすぐに(母が言っていた養女のことか?)と思い当たった。ここで安寿に問うべきなのか判断に迷った。航志朗は華鶴から安寿の個人的なことをまったく知らされていない。

 「岸さん、すいません。私、早く画廊に行かなくてはならないんです。ごちそうさまでした」

 そう言って安寿は車を降りようとした。航志朗はあわてて言った。

 「わかった。一緒に行こう」

 航志朗は先に車を降りて後部座席のドアを開け、安寿に手を差し伸べて言った。

 「また俺が君を背負うよ」
 
 だが、画廊まで自分で歩くと安寿が言いはったので、仕方なく航志朗は安寿を自分の左腕につかまらせて一歩ずつ遅々と歩いた。安寿の包帯が巻かれた足はかかとを踏んで革靴からはみ出し、いかにも歩きづらそうだ。きっと左足を踏み出すたびにひどい痛みが走るに違いない。航志朗は何度も安寿にけがの回復に差し障るから自分の背中に乗れと言ったが、安寿は「自分で歩きます」と一点張りだった。
 
 (けっこう、彼女、頑なな性格なんだな……)

 航志朗は内心ため息をついて思った。安寿の横顔を見ると、安寿は前を見すえて唇をきつく閉じている。それは何かを固く決意しているかのようだった。
 
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