今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第2節
十二月下旬に入った。今日から大学は二週間の冬休みだ。赤紅色の振袖姿の安寿は岸のアトリエで肘掛け椅子に座っていた。岸の油絵は仕上げの最終段階に入っている。年が明けたら作品は航志朗の手で顧客のもとに渡される約束になっている。
岸は安寿の黒い瞳を描いていた。岸に瞳の奥まで見られているような気配を感じる。安寿はまばたきを極力せずに静止していた。その時、ふと岸が声をかけた。いつもの心に染み入る優しい声だ。
「安寿さん、寒くはないですか」
「はい。大丈夫です、岸先生」
安寿のそばには赤々と燃える石油ストーブが置いてある。ストーブの上のやかんが湯気をあげている。油絵のオイルと石油の匂いが混じり合って酔いそうな気分になるが、身体は芯から温まっている。頬を赤らめていないか心配になるほどだ。
安寿は岸が絵を描く姿を見つめた。真剣な岸の琥珀色の瞳が赤みを帯びて光っている。どうしようもなく安寿は頭のなかに思い浮かべた。
(あと何枚、岸先生は私がモデルの絵を描いてくださるのだろう。もしも、この作品が最後だったら……)
急に胸が苦しくなってくるが、安寿は表情を崩さない。
(この冬休みで航志朗さんとお別れになる。それでもいい。クリスマスイブに彼は帰って来る。初めて愛するひとと一緒にクリスマスとお正月を過ごせる。嬉しい、とても嬉しい。だだそれだけでいい。黒川家の襖絵は大学を卒業するまでに必ず完成させる。離婚する日に間に合わなくても)
すでに窓の外は真っ暗になっている。クリスマスイブはあさってだ。もうすぐ航志朗に再会できる。安寿は思わずうつむいて微笑んだ。
岸がそっと画筆を置いて言った。
「安寿さん、今日はこれで終わりにします。ありがとうございました」
「はい、岸先生。こちらこそありがとうございました」
岸は筆洗液で画筆をゆすいで古布でぬぐった。その優雅な岸の手の動きが安寿は好きだ。いつもつい見入ってしまう。岸が油絵の道具を大切に扱っているのがよくわかる。
古閑ルリに借りたことになっているルリの兄の油絵の道具を、安寿は自室で絵を描く時にだけ使っている。いつかルリに油絵を贈りたいと思っている。実は、このクリスマスにルリに油絵をプレゼントしようと考えてはみたが、結局のところ自信がなくて描けなかった。
岸はアトリエの奥の洗面台で手を洗うと、沸いたやかんの湯でハーブティーを淹れた。安寿と岸はふたりでハーブティーをゆっくりと啜った。目を細めて岸が言った。
「安寿さんは、本当にその着物がよく似合いますね」
安寿は顔を赤らめて消え入るような声で言った。
「ありがとうございます、岸先生。今まで、私、赤い服を着たことがなかったんです。はじめはどきどきしました。あまりにも彩度が高い鮮やかなお色なので」
ソーサーにティーカップを置いて岸は優しく安寿に微笑んだ。
飲み終わったティーセットをトレイにのせて安寿が母屋に戻って来ると、カレーの香りがしてきた。
(めずらしい。今夜はカレーなんだ。岸先生がお好きじゃないから、咲さん、めったにつくらないのに)
サロンに近づくと、部屋の中からピアノの音色が聞こえてきた。聞き慣れたクリスマスキャロルのメドレーだ。楽しげなメロディに耳をすませた安寿は首をかしげた。
(……レコードの音? それとも誰かがピアノを弾いているのかな)
突然それに思い当たって、安寿は持っていたトレイを落としそうになった。
(航志朗さんが帰って来たんだ!)
岸は安寿の黒い瞳を描いていた。岸に瞳の奥まで見られているような気配を感じる。安寿はまばたきを極力せずに静止していた。その時、ふと岸が声をかけた。いつもの心に染み入る優しい声だ。
「安寿さん、寒くはないですか」
「はい。大丈夫です、岸先生」
安寿のそばには赤々と燃える石油ストーブが置いてある。ストーブの上のやかんが湯気をあげている。油絵のオイルと石油の匂いが混じり合って酔いそうな気分になるが、身体は芯から温まっている。頬を赤らめていないか心配になるほどだ。
安寿は岸が絵を描く姿を見つめた。真剣な岸の琥珀色の瞳が赤みを帯びて光っている。どうしようもなく安寿は頭のなかに思い浮かべた。
(あと何枚、岸先生は私がモデルの絵を描いてくださるのだろう。もしも、この作品が最後だったら……)
急に胸が苦しくなってくるが、安寿は表情を崩さない。
(この冬休みで航志朗さんとお別れになる。それでもいい。クリスマスイブに彼は帰って来る。初めて愛するひとと一緒にクリスマスとお正月を過ごせる。嬉しい、とても嬉しい。だだそれだけでいい。黒川家の襖絵は大学を卒業するまでに必ず完成させる。離婚する日に間に合わなくても)
すでに窓の外は真っ暗になっている。クリスマスイブはあさってだ。もうすぐ航志朗に再会できる。安寿は思わずうつむいて微笑んだ。
岸がそっと画筆を置いて言った。
「安寿さん、今日はこれで終わりにします。ありがとうございました」
「はい、岸先生。こちらこそありがとうございました」
岸は筆洗液で画筆をゆすいで古布でぬぐった。その優雅な岸の手の動きが安寿は好きだ。いつもつい見入ってしまう。岸が油絵の道具を大切に扱っているのがよくわかる。
古閑ルリに借りたことになっているルリの兄の油絵の道具を、安寿は自室で絵を描く時にだけ使っている。いつかルリに油絵を贈りたいと思っている。実は、このクリスマスにルリに油絵をプレゼントしようと考えてはみたが、結局のところ自信がなくて描けなかった。
岸はアトリエの奥の洗面台で手を洗うと、沸いたやかんの湯でハーブティーを淹れた。安寿と岸はふたりでハーブティーをゆっくりと啜った。目を細めて岸が言った。
「安寿さんは、本当にその着物がよく似合いますね」
安寿は顔を赤らめて消え入るような声で言った。
「ありがとうございます、岸先生。今まで、私、赤い服を着たことがなかったんです。はじめはどきどきしました。あまりにも彩度が高い鮮やかなお色なので」
ソーサーにティーカップを置いて岸は優しく安寿に微笑んだ。
飲み終わったティーセットをトレイにのせて安寿が母屋に戻って来ると、カレーの香りがしてきた。
(めずらしい。今夜はカレーなんだ。岸先生がお好きじゃないから、咲さん、めったにつくらないのに)
サロンに近づくと、部屋の中からピアノの音色が聞こえてきた。聞き慣れたクリスマスキャロルのメドレーだ。楽しげなメロディに耳をすませた安寿は首をかしげた。
(……レコードの音? それとも誰かがピアノを弾いているのかな)
突然それに思い当たって、安寿は持っていたトレイを落としそうになった。
(航志朗さんが帰って来たんだ!)