今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 階段を上ってふたりで安寿の部屋に行った。誰もいない二階にたどり着くと航志朗は安寿を横から抱きすくめてきた。部屋に入ると着替えるからと言って、安寿は航志朗に目を閉じさせた。しばらく上質な絹がこすれる微かな音が鳴り響いた。耳をすませた航志朗の胸の鼓動が高鳴る。フランネルの上品なグレーのワンピースに着替えた安寿はベッドに腰掛けた航志朗の隣に座った。

 「もういいですよ、航志朗さん」

 目を開けた航志朗は待ちきれない様子で言った。

 「安寿、これからマンションに行くだろ。泊まる準備をしたら」

 すぐに「それはできません」と安寿は言いきった。

 「どうしてなんだ? クリスマスと年末年始を二人だけで過ごすんじゃないのか」

 「ここで過ごします。だってまだモデルの仕事があるし、クリスマスや年末年始は家族で過ごすものでしょう?」

 顔をしかめた航志朗は下を向いていった。

 「家族か。君は知っているだろ? 岸家は家族として機能していない。俺が子どもの頃からずっとだ」

 優しいまなざしを航志朗に注いでから安寿は明るく言った。

 「航志朗さん、クリスマスのごちそうやおせち料理を一緒につくりましょうよ。もちろん咲さんに教えていただいて。咲さんも伊藤さんも今年は航志朗さんがいらっしゃって嬉しいと思います。だって久しぶりでしょう、クリスマスとお正月に航志朗さんが帰って来るのは」

 「十五の時、家を出た以来だな。……十三年ぶりだ」

 安寿はにっこり笑った。航志朗は安寿の笑顔を切なそうに見た。

 いきなり航志朗は安寿をベッドの上に押し倒して唇を重ねた。安寿は航志朗の背中に腕を回してきつくしがみつく。セミダブルのベッドがきしんで音を立てて、思わずふたりは横を向いてベッドを見た。前髪をたらして航志朗が言った。

 「子どもの頃の部屋で君とこうするのは、やっぱりなんだか微妙な気分になるな」

 「じゃあ、……やめましょうか?」

 下から安寿が航志朗の琥珀色の瞳を茶目っ気たっぷりでのぞき込んだ。

 息を呑んで航志朗は顔を赤らめた。

 「安寿、君は本当に可愛らしいひとだな。君と離れている間、俺は君が心配で心配で仕方がないよ」

 無邪気に安寿は尋ねた。

 「私の何が心配なんですか、航志朗さん?」

 苦笑を浮かべて航志朗が言った。

 「もちろん、他の男とこうしてないかって」

 そう言うと航志朗は安寿を抱きしめて、また深く濃厚にキスした。そして、安寿の背中に手を回してワンピースのファスナーを下ろし始めた。思わず安寿は手首を引き寄せて腕時計を見た。午後七時ちょうどだ。

 その時、デスクの上に置いてあった安寿のスマートフォンが鳴った。急に不機嫌そうな顔をして航志朗は安寿のスマートフォンをにらんで言った。

 「……誰からだ?」

 安寿は胸をどきっとさせた。

 (もしかして、皓貴さんから? 冬休み中は黒川家に行かないって言ってあるのに)

 起き上がってスマートフォンの画面を見た安寿は安堵した。咲からだった。

 タップすると咲の高音域の声が部屋中に響き渡った。

 「安寿さま、大変失礼いたします。念のため、お電話でお伝えいたしますね。お夕食の準備が整いましたけれど、いかがなさいますか?」

 肩をすくめて安寿は答えた。

 「ありがとうございます、咲さん。今から航志朗さんと行きます」

 手を背中に回してワンピースのファスナーを引き上げながら安寿は航志朗のそばに来て言った。

 「夕食をいただきましょう、航志朗さん。お腹が空いたでしょ。今夜は、あなたの大好きなカレーですね」

 下を向いたまま航志朗はこくりとうなずいた。

 夕食をとってから航志朗の後に風呂に入って安寿は自室に戻って来た。ベッドの隣には陽の香りがするふかふかの布団が敷いてある。ベッドの上にはフランス語のロゴがプリントされた大型の紙袋が三個も置いてあった。

 「ルーブル、オルセー、マルモッタン……」

 それを読みあげた安寿は歓声を出した。

 「喜んでくれた? パリのミュージアムショップで君が好きそうな画集を買って来た。少し早いけれどクリスマスプレゼントだ。それとも、キラキラ光るものの方がよかったかな、安寿?」

 一瞬、航志朗はロマン・ドゥ・デュボアの姿と彼の的確なアドバイスを思い出した。

 「ありがとう、航志朗さん! とっても嬉しい」

 目を輝かせながら安寿は画集のページを夢中になってめくり出した。毛布を被って航志朗は安寿の後ろから覆いかぶさった。ふたりは折り重なって画集を見つめた。愛おしそうに航志朗は安寿の長い黒髪をなでながら顔を擦りつける。

 「私、ボナールの絵って好き。この絵って、……ニケみたい」

 くすくす笑いながら安寿はピエール・ボナールの『白い猫』を指さした。

 「ナビ派か。印象派にはない『目に見えない世界』を描いているからか?」

 「そう。温かみがある親密な感じがするのに神秘的。不思議な絵だけど、とても心惹かれる」

 「それって、君のことを言っているみたいだな」

 「なんですか、それ?」

 「褒めているつもりなんだけど」

 「そうは聞こえませんよ!」

 わざとらしく安寿は仏頂面をしたが、毛布の中で航志朗にそっと抱きついてささやいた。

 「嬉しいです。また会えて」

 「ごめん、安寿。四か月も待たせたな」

 航志朗は安寿を抱きしめると唇を重ねてゆっくりと布団の中にもぐり込んだ。パジャマを脱いで互いを愛おしむように身体を重ねる。声を出さないように安寿は唇を航志朗の肩に押しつけて我慢しながら、どうしても頭のなかに浮かんでくる決められた未来に心を墨色ににごらせる。

 (これが最後かもしれない。それでもいい。私にとって、今がすべてだから)

 安寿は航志朗にきつくしがみついた。ふたりは目を合わせて見つめ合う。今のこの時が永遠に続くようにと心の底から願いながら。

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