今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 クリスマスイブがやって来た。身が凍えるほど寒い曇天の空はホワイトクリスマスを期待させる。

 午前中から安寿は赤紅色の振袖姿で岸の前にずっと座っていた。アトリエのすみでは航志朗が腕を組んで画家とモデルの姿を黙って見守っていた。「最後の仕上げに集中したいから、航志朗、おまえにはここから出て行ってほしい」と岸に言われても、何も答えずに航志朗は自分の座る椅子を用意して陣取った。困惑顔の岸はそんな息子から目を背けて大きくため息をついた。安寿は何も言えずに航志朗と岸の姿を静かに見つめていた。

 その日は早めにモデルの仕事が終わった。岸は納得がいかない表情を浮かべた安寿に向かって言った。

 「これから咲さんのお手伝いをされるのですよね、安寿さん。どうぞ台所に行ってください」

 嬉しそうに安寿はうなずいて言った。

 「はい、岸先生。クリスマスのディナーを楽しみにしていてくださいね!」

 驚いた様子で岸が言った。

 「私もご一緒してよろしいのですか?」

 一瞬、岸は航志朗を見た。航志朗は父の視線を反射的に外した。あわてた様子で安寿が声をあげた。

 「当たり前じゃないですか。クリスマスは家族で過ごすものですよ、岸先生」

 立ち上がった航志朗は安寿の手を握ると、安寿を引っぱってアトリエを出て行った。しばらくキャンバスの前で呆然としていた岸は眉間にしわを寄せてつぶやいた。

 「……家族、か」

 着替えた安寿と航志朗は岸家の台所に向かった。サロンのグランドピアノの上には大きな木製のオルゴール付きのクリスマスツリーが飾られていた。伊藤が納戸の奥から出してきたのだ。昨日の夜、ふたりでツリーの飾りつけをした。航志朗がツリーの土台を回すと、柔らかな『きよしこの夜』のメロディーが流れた。安寿は航志朗を見上げて微笑んだ。メロディーが鳴り終わると残念そうに安寿は言った。

 「華鶴さんもいらっしゃったらよかったのに……」

 今、華鶴は、マリコ・アネラ・ナカジマが暮らすオアフ島にいる。出国する直前に華鶴は安寿に軽くため息をついてもらした。

 「マリコったら、また孫が生まれたのよ。いったい何人目なのかしら? ベビーと一緒にお嬢さんが里帰りしているから、今回はカハラのホテルを予約したの。だってうるさいだけでしょ、ベビーなんて」

 美容院から戻って来たばかりの髪をかき上げて心持ちいら立った様子の華鶴を、安寿はそっと盗み見た。なぜか華鶴の本心からの言葉ではないような気がした。

 「いなくてよかったよ。あのひとは、俺の母親でもなんでもないからな」

 安寿は航志朗の無表情な横顔を見た。安寿は航志朗も本心を言っていない気がした。

 岸家の台所は甘いチョコレートの香りが漂い、うきうきとした楽しい雰囲気に包まれた。咲の主導で安寿と航志朗はブッシュ・ド・ノエルを焼いた。その後、咲はおとといから調味液に漬け込んでおいた骨付きの鶏モモ肉をオーブンレンジに入れてスイッチを押した。

 咲の前でも構わずに、航志朗は安寿の身体にさりげなく触れてくる。「ちょっと、航志朗さん!」と安寿が小声で注意しても、少しも悪びれずに航志朗は心から楽しそうな笑顔を浮かべた。

 頬を紅潮させた咲はブロッコリーを茹でながら歌を歌い出した。『アヴェ・マリア』だ。安寿はその本格的な歌声に聞き入った。咲が歌い終わると安寿と航志朗は拍手した。航志朗が残ったチョコレートをつまんで口に放り込んでから言った。

 「咲さんは、学生時代に声楽を学ばれていたんだよ」

 「やっぱりそうじゃないかと思っていました。咲さんの歌声って、とっても素敵。心がうっとりします」

 「あらまあ。安寿さま、嬉しいお言葉をありがとうございます。私は音大に行っていたのですが、家の都合で大学を中退したんです……」

 咲の瞳は見る見るうちに悲しげに変化していき、思わず安寿は航志朗を見上げた。航志朗は困惑した視線を安寿に向けた。

 クリスマスイブの夜はゆっくりとふけていった。風呂に入ってから安寿はパジャマではなく、ダークネイビーのウールワンピースの上にロパペイサを羽織った。航志朗はノーネクタイでホリゾンタルカラーのシャツの上にジャケットを着こなした。

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