今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
航志朗は立ち上がり、クローゼットを開けて中から退色した箱を取り出した。箱を安寿の前に置いて、航志朗は陰のある微笑みを浮かべた。
安寿は胸がしめつけられた。
(なんて哀しそうな瞳をしているの……)
ここで過去の航志朗の身に何があったのか知らない。だが、安寿は心の奥底で感じていた。きっと孤独な子ども時代だったのだ。大人になっても身体じゅうが冷えきったままの航志朗を、安寿は全身全霊で愛おしく想う。
(子どもの頃の私も確かにひとりぼっちだった。でも、私には恵ちゃんがいてくれた。身も心も寒い時に一緒に布団にくるまってくれたたった一人の家族がいた。だから私は大丈夫だった。そう、恵ちゃんに守られていたから。……今は、私が航志朗さんを守るんだ)
箱のふたを持ち上げて航志朗は中身を取り出した。色褪せた古い画用紙だ。
「これは、俺が子どもの頃に描いた絵だ。この家を出て行く時にどうしても捨てられなかった」
「航志朗さん、見てもいいですか?」
「もちろん、君に見てほしい」
安寿はうなずくと、一枚一枚、丁寧に見ていった。にっこりと安寿は微笑みを浮かべた。飛行機の絵や花や植物の絵、そして、岸家の裏の森を背景にして優しく微笑んだ誰かの絵。
今の安寿には、はっきりとわかる。
(この絵の女のひと、……恵真さまだ)
その絵に描かれた女の瞳には、穏やかな琥珀色が塗ってある。
うなだれた様子の航志朗に安寿はそっと言った。
「恵真さまって、とてもきれいなお方。それに、とてもお優しい瞳をされているのですね。本当に航志朗さんによく似ています」
「安寿……」
航志朗は顔を上げて安寿を見つめた。
安寿は航志朗を両腕で包み込んだ。そして、自分の胸に引き寄せて抱きしめた。航志朗は安寿の胸に顔を押しつけた。やはり航志朗の身体は冷えきっていて、安寿は胸が苦しくなってくる。
(私が航志朗さんを守ります。どうか彼を見守っていてください、恵真さま……)
しばらく安寿と航志朗は抱き合っていた。ふと安寿は一枚の絵がまだ箱の底に残っていることに気がついた。安寿の視線の先を見て、航志朗は箱の中から最後の一枚の絵を取り出して言った。
「安寿、この絵を覚えているか?」
安寿は目を大きく見開いた。航志朗から手渡された絵を見つめる。震え出した安寿の手を航志朗はしっかりと支えた。
小声で安寿はつぶやいた。
「夢じゃなかったんだ……」
「夢?」
「子どもの頃からよく見る夢……」
「前に話してくれた夢のことだな」
「そう。中学生くらいの年上の男の子に、子どもの頃の私が描いた絵をあげる夢。その絵は、地面の下の絵。……ママが眠っている」
航志朗は絵を裏にした。「んじ」と拙いが力強い文字が書いてある。
「私の名前……」
「うん。『あんじゅ』って、書いてあるな」
「……航志朗さん!」
安寿は航志朗に抱きついた。あっという間に航志朗の肩が安寿の大粒の涙で温かく濡れていく。航志朗は安寿の髪をなでながら言った。
「安寿、俺たちは、ずっと前に出会っていたんだな」
航志朗の腕の中で安寿はうなずいた。
ふたりはきつく抱き合った。とめどなく過ぎ去って行く時間のなかで。
落ち着きを取り戻してきた安寿に航志朗は尋ねた。
「あの時、どうして君はあそこにいたんだ?」
「覚えていません。たぶん、恵ちゃんに連れて行ってもらったのかもしれません。……ママが学んでいた大学に」
「君のお母さんが通っていた大学なのか!」
思わず航志朗は大きな声を出した。心の底から嫌な予感がじわじわとわきあがってきて、航志朗は顔を歪めた。
「航志朗さんは? 航志朗さんは、どうしてあの大学にいたんですか?」
「あの大学で父は芸術学部の講師をしていた。あの日は父がその大学を退職した日だった。たまたま伊藤さんと車で迎えに行ったんだ」
「本当ですか! じゃあ、ママは、岸先生の講義を受けたことがあったのかも」
「そ、そうだな……」
航志朗は言葉に詰まった。ずっと胸の奥に隠しておいた秘密がいやおうなく漏れ出していくのを感じる。
嬉しそうに安寿が声をあげた。
「もしかしたら、岸先生はママのことを知っていたのかもしれない!」
急激に胸の鼓動が早まっていくのを航志朗は自覚した。どうしようもなくわき上がってくる真っ黒な恐怖に覆われながら、航志朗は安寿の顔を盗み見た。
苦笑いして安寿は首を振ってうつむいた。
「そんなことはないですね……」
その絵を安寿はそっと箱に戻した。そして、ゆっくりと立ち上がると、窓辺に行って外を眺めた。雪の降る夜は静まり返っている。振り返って安寿は航志朗を呼んだ。
「見て、航志朗さん。外はもう真っ白ですよ」
航志朗も立ち上がって安寿の後ろに立った。
「本当だ。真っ白だな……」
そう言うと航志朗は安寿を後ろから抱きしめた。
安寿は航志朗の腕に手を触れながら思った。
(白い雪って、本当にすべてを優しく覆ってくれる。今、彼に伝えられない私のこの想いをひっそりと覆ってほしい。私は航志朗さんを愛してる。本当に心から愛してる……)
安寿は向き直って航志朗の首に腕を回して引き寄せると、思いきり背伸びをして航志朗にキスした。航志朗の唇は雪の結晶のように冷たかった。背伸びをしすぎてよろけた安寿を航志朗は両腕で支えた。ふたりはきつく抱き合うと、そのままベッドの上に倒れ込んだ。
安寿は雪が降る音に耳をすませながら、航志朗の腕の中で静かに目を閉じた。
安寿は胸がしめつけられた。
(なんて哀しそうな瞳をしているの……)
ここで過去の航志朗の身に何があったのか知らない。だが、安寿は心の奥底で感じていた。きっと孤独な子ども時代だったのだ。大人になっても身体じゅうが冷えきったままの航志朗を、安寿は全身全霊で愛おしく想う。
(子どもの頃の私も確かにひとりぼっちだった。でも、私には恵ちゃんがいてくれた。身も心も寒い時に一緒に布団にくるまってくれたたった一人の家族がいた。だから私は大丈夫だった。そう、恵ちゃんに守られていたから。……今は、私が航志朗さんを守るんだ)
箱のふたを持ち上げて航志朗は中身を取り出した。色褪せた古い画用紙だ。
「これは、俺が子どもの頃に描いた絵だ。この家を出て行く時にどうしても捨てられなかった」
「航志朗さん、見てもいいですか?」
「もちろん、君に見てほしい」
安寿はうなずくと、一枚一枚、丁寧に見ていった。にっこりと安寿は微笑みを浮かべた。飛行機の絵や花や植物の絵、そして、岸家の裏の森を背景にして優しく微笑んだ誰かの絵。
今の安寿には、はっきりとわかる。
(この絵の女のひと、……恵真さまだ)
その絵に描かれた女の瞳には、穏やかな琥珀色が塗ってある。
うなだれた様子の航志朗に安寿はそっと言った。
「恵真さまって、とてもきれいなお方。それに、とてもお優しい瞳をされているのですね。本当に航志朗さんによく似ています」
「安寿……」
航志朗は顔を上げて安寿を見つめた。
安寿は航志朗を両腕で包み込んだ。そして、自分の胸に引き寄せて抱きしめた。航志朗は安寿の胸に顔を押しつけた。やはり航志朗の身体は冷えきっていて、安寿は胸が苦しくなってくる。
(私が航志朗さんを守ります。どうか彼を見守っていてください、恵真さま……)
しばらく安寿と航志朗は抱き合っていた。ふと安寿は一枚の絵がまだ箱の底に残っていることに気がついた。安寿の視線の先を見て、航志朗は箱の中から最後の一枚の絵を取り出して言った。
「安寿、この絵を覚えているか?」
安寿は目を大きく見開いた。航志朗から手渡された絵を見つめる。震え出した安寿の手を航志朗はしっかりと支えた。
小声で安寿はつぶやいた。
「夢じゃなかったんだ……」
「夢?」
「子どもの頃からよく見る夢……」
「前に話してくれた夢のことだな」
「そう。中学生くらいの年上の男の子に、子どもの頃の私が描いた絵をあげる夢。その絵は、地面の下の絵。……ママが眠っている」
航志朗は絵を裏にした。「んじ」と拙いが力強い文字が書いてある。
「私の名前……」
「うん。『あんじゅ』って、書いてあるな」
「……航志朗さん!」
安寿は航志朗に抱きついた。あっという間に航志朗の肩が安寿の大粒の涙で温かく濡れていく。航志朗は安寿の髪をなでながら言った。
「安寿、俺たちは、ずっと前に出会っていたんだな」
航志朗の腕の中で安寿はうなずいた。
ふたりはきつく抱き合った。とめどなく過ぎ去って行く時間のなかで。
落ち着きを取り戻してきた安寿に航志朗は尋ねた。
「あの時、どうして君はあそこにいたんだ?」
「覚えていません。たぶん、恵ちゃんに連れて行ってもらったのかもしれません。……ママが学んでいた大学に」
「君のお母さんが通っていた大学なのか!」
思わず航志朗は大きな声を出した。心の底から嫌な予感がじわじわとわきあがってきて、航志朗は顔を歪めた。
「航志朗さんは? 航志朗さんは、どうしてあの大学にいたんですか?」
「あの大学で父は芸術学部の講師をしていた。あの日は父がその大学を退職した日だった。たまたま伊藤さんと車で迎えに行ったんだ」
「本当ですか! じゃあ、ママは、岸先生の講義を受けたことがあったのかも」
「そ、そうだな……」
航志朗は言葉に詰まった。ずっと胸の奥に隠しておいた秘密がいやおうなく漏れ出していくのを感じる。
嬉しそうに安寿が声をあげた。
「もしかしたら、岸先生はママのことを知っていたのかもしれない!」
急激に胸の鼓動が早まっていくのを航志朗は自覚した。どうしようもなくわき上がってくる真っ黒な恐怖に覆われながら、航志朗は安寿の顔を盗み見た。
苦笑いして安寿は首を振ってうつむいた。
「そんなことはないですね……」
その絵を安寿はそっと箱に戻した。そして、ゆっくりと立ち上がると、窓辺に行って外を眺めた。雪の降る夜は静まり返っている。振り返って安寿は航志朗を呼んだ。
「見て、航志朗さん。外はもう真っ白ですよ」
航志朗も立ち上がって安寿の後ろに立った。
「本当だ。真っ白だな……」
そう言うと航志朗は安寿を後ろから抱きしめた。
安寿は航志朗の腕に手を触れながら思った。
(白い雪って、本当にすべてを優しく覆ってくれる。今、彼に伝えられない私のこの想いをひっそりと覆ってほしい。私は航志朗さんを愛してる。本当に心から愛してる……)
安寿は向き直って航志朗の首に腕を回して引き寄せると、思いきり背伸びをして航志朗にキスした。航志朗の唇は雪の結晶のように冷たかった。背伸びをしすぎてよろけた安寿を航志朗は両腕で支えた。ふたりはきつく抱き合うと、そのままベッドの上に倒れ込んだ。
安寿は雪が降る音に耳をすませながら、航志朗の腕の中で静かに目を閉じた。