今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第2節
やっと安寿と航志朗は画廊の前にたどり着いた。エントランスには華鶴と懇意の顧客たちから寄贈された豪華なフラワーアレンジメントがたくさん飾られている。一瞬、航志朗の脳裏にアンとヴァイオレットのウエディングパーティーの光景が浮かんだ。
受付にいた伊藤が画廊のドアのガラス越しにふたりに気づき、血相を変えて飛び出して来た。
「安寿さま、いかがなされましたか! 航志朗坊っちゃん、ご帰国されていたのですか!」
伊藤がこんなに取り乱している姿を安寿も航志朗も初めて見た。
「安寿さま、オフィスの方で休んでくださいませ! 私が背負いますので、どうぞお乗りください!」と伊藤は大声を張りあげて、すぐさま安寿の前に背を向けてしゃがんだ。
思わず航志朗は苦笑いした。
(おいおい、伊藤さん。いくらなんでもそれは無理だろう。歳を考えろよ)
「このビルはエレベーターがないから、ここは俺に背負わせろ」と航志朗が強い口調で安寿に言い渡した。だが、安寿はまったく聞く耳を持たずに左足を引きずって、ひとりで階段を上り始めた。
(やれやれ、本当に頑固な性格だな……)
すぐさま安寿を後ろから支えて一緒に上りながら半ばあきれつつも、航志朗は改めて安寿の意志の強さに感心した。
当の安寿は、(皆さまの前で岸さんにおんぶしてもらうなんて、ものすごく恥ずかしくて、とてもじゃないけど無理!)と必死で抵抗していたのだった。
その一時間前から、岸はオフィスでいつものようにハーブティーを淹れて休憩を取っていた。そこへ来客の応対がひと段落した華鶴がやって来た。岸の前に座った華鶴は艶やかに美しい脚を組んで微笑みを浮かべた。沈黙したままの岸は視線を落とした。
突然、華鶴は岸に告げた。
「白戸安寿さんを岸家の養女にするわ」
岸は驚愕した顔を華鶴に向けたが、岸は何も言わない。ティーカップの中のハーブティーがゆらゆらと小刻みに揺れた。その黄色い波紋を見て、岸は自分の胸の激しい動悸に気がついた。顔をしかめながら、岸はハーブティーを飲み干した。
「安寿さんを養女にお迎えできるなんて、あなたは天にも昇る心地でしょう?」と華鶴は冷淡な笑みを浮かべ、刺々しく言い放った。岸は無言で空のティーカップを見つめた。
「そう、まさに天から降ってきた僥倖よね。だって、私は愛するあなたの本来の絵を、再び手に入れることができるんですもの。もちろん、大きなお金もね」
華鶴は片方の口角を上げて岸の肩に手を置いてから、個展会場に戻って行った。
安寿と航志朗は三階まで上がったところで階段を下りてくる華鶴と出くわした。華鶴はふたりを見下ろすと、航志朗の方は無視して、安寿に親身に言った。
「まあ、安寿さん、大変! いったいどうなさったの?」
とても優しい声だ。そして、航志朗を押しのけて安寿の肩を抱いた。航志朗は胸くそ悪く思った。
(なんだ、この態度は! 彼女は完全にこの女にだまされているんじゃないのか)
華鶴はそのまま安寿を支えて階段を上り、四階のオフィスのソファに安寿を座らせて、自分も隣に座った。向かい側に座っていた岸があわてて立ち上がり、「安寿さん、どうされましたか?」と心配そうに声をかけた。後ろからついて行った航志朗は険しい顔をして、ソファから少し離れた窓際の椅子に腰を下ろして腕組みをした。すぐに伊藤も続いてオフィスにやって来て奥に控えた。
安寿はオフィスの古めかしい木製の時計を見た。午後二時半だ。
(時間がない。すぐに華鶴さんと岸先生にお願いして、早く家に帰らなくちゃ!)
安寿の胸の鼓動が早まった。
「あの、私、……この近くで転んでしまいました。でも、岸さんがお医者さんに連れて行ってくださったので、もう大丈夫です」と安寿は申しわけなさそうに小さい声で言った。
即座に航志朗が付け加えた。
「僕のせいです。僕が彼女を転ばせてしまいました」
「いいえ、岸さんのせいではありません。私が勝手に転んだんです」
あわてて安寿が訂正した。
華鶴は航志朗を一瞥し、「わかったわ。本当にお大事にしてね、安寿さん」と実に心配そうに言った。
「はい。ありがとうございます」と目を伏せて言ってから、安寿は深く息を吸って姿勢を正した。
(早くお願いしなくちゃ。早く!)
その時、安寿はなぜか航志朗の方を見てしまった。航志朗はすぐにそれに気づいた。
その瞬間、ふたりは視線を交わした。
そして、安寿は前を向いて、岸と華鶴に深々と頭を下げて言った。
「岸先生、華鶴さん、私を岸家の養女にしてください。どうかお願いいたします」
華鶴は色鮮やかな花が満開になるように微笑み、岸は哀しい瞳をして安寿を見つめた。
「まあ、嬉しいわ、安寿さん! 私に可愛い娘ができるのね!」
華鶴は安寿の手を両手でしっかりと握った。
その光景を黙って見ていた航志朗が、安寿に問いかけた。落ち着いてはいるが重々しい声だ。
「なぜ、今、君は岸家の養女になるんだ? 君のご両親は承諾したのか?」
安寿は冷静に航志朗に向かって説明した。
「私には両親がいません。私の家族は母の妹の叔母ひとりだけです。今、叔母は恋人に求婚されていますが、私のために叔母は結婚に踏み切れません。私は叔母のために早く自立しなければと思っています。それで、華鶴さんにご相談させていただいたら、養女のお申し出をいただきました」
その言葉の途中から華鶴の大理石でできた彫刻のような美しい手は、安寿の背中を優しく支えた。
いきなり航志朗は痛烈な衝撃を受けた。
(両親がいない? 俺は彼女のことを何も知らないんだな……)
そして、航志朗は疑念を感じた。
(でも、彼女の叔母は自分が結婚するために、姪が岸家の養女になるなんて、絶対に納得するはずがないだろう)
頭を抱えて航志朗は考え始めた。
(よく考えろ、この状況の最適解はなんだ? よく考えるんだ……)
必死に航志朗は考えた。安寿を守るために。
その時、突然、航志朗にあるひらめきが降ってきた。
(そうか! 最適解どころか、正解はこれしかない!)
口元に笑みを浮かべて航志朗はこぶしを握りしめた。
先程からずっと黙り込んだ航志朗に顔を向けて、華鶴が言った。
「航志朗さん、あなたに異存はないわよね? いちおう家族の一員として訊いておくけれど」
それに対して航志朗は強く厳しい口調で反論した。
「僕は反対です。だいたい安寿さんの叔母さんが承知するわけがないでしょう」
安寿はその言葉を聞いて底なし沼に突き落とされた感じがした。息苦しくなって思わず涙が出そうになる。
安寿は追い詰められながら、頭のなかで叫んだ。
(もう時間がない! 私のせいで恵ちゃんと優仁さんが別れるなんて、絶対にいや! いったい私はどうしたらいいの?)
すると、航志朗がすっと椅子から立ち上がり、安寿のすぐそばまでやって来た。
航志朗は安寿の前にひざまずいて、明るい笑顔を浮かべて言った。
「安寿さん。今、君は何歳?」
「……十八歳ですけれど」
「じゃあ、法律的には、なんの問題もないな」
(「法律的」? どういうことなの……)
安寿は怪訝そうな表情を航志朗に向けた。
航志朗は安寿の瞳をまっすぐに見つめて、胸に手を当てて言った。
「安寿さん、僕と結婚しませんか?」
「けっ、……結婚!?」
安寿は突然の航志朗のプロポーズに仰天した。
まず口を開いたのは岸だった。
「航志朗、何てばかなことを言い出すんだ! まだ高校生の安寿さんと結婚なんて、とんでもないだろう!」
安寿の前で初めて岸は声を荒げた。
華鶴はさも愉快そうに笑いながら言った。
「航志朗さん。あなた、何をおっしゃっているの? あなたみたいな女性にだらしがないひとに、安寿さんが結婚を承諾するわけがないでしょう」
航志朗は両親の反応をまったく意に介さずに、あぜんとした安寿にさらに尋ねた。
「今日、君はずっと時間を気にして急いでいるけれど、どうしてなんだ?」
「叔母が、今夜、恋人と別れようとしているんです。……私のせいで」
安寿は肩を震わせながら微かな声で答えた。
「そうか。だから、君は、今、自分の身の振り方を決めて、叔母さんを止めようとしているんだね」
「……そうです」と言って、安寿は下を向いて唇を固く結んだ。
航志朗は安寿の目の前に右手をそっと差し伸べて言った。
「わかった。俺が君に協力するよ」
安寿はその航志朗の手をしばらく見つめてから、顔を上げて航志朗の目を見た。その琥珀色の瞳は穏やかに透き通っている。安寿は何も言わずに航志朗を見つめながら、吸い込まれるように航志朗の右手に自分の右手を重ねた。航志朗は安寿の右手をしっかりと握った。
それを見届けた華鶴があきれ返った様子で言った。
「あらあら。あなたたちは、今夜のためにとりあえず結婚するというのね。でも、安寿さんが自立するまでという契約の上での結婚ということでしょう。だって、お互いに愛し合って決めた結婚じゃないんだから。まあ、安寿さんの将来のためにも期限付きならいいんじゃないのかしら。ねえ、宗嗣さん?」
華鶴は岸に視線を向けた。華鶴の口元は冷たく笑っていた。無表情の岸はしばらく目を閉じて考えてから言った。
「期限付きの契約をするというなら、私はこの結婚を認めよう。結婚の期限の一つ目は、安寿さんが自立した時。そして、二つ目は、安寿さんがモデルの人物画を私が描き終えた時だ。それに加えて、離婚が成立したら、岸家は安寿さんに相応の慰謝料を支払うことも契約条件に入れる」
それを聞いて、華鶴は目を細めてから伊藤に言った。
「伊藤、さっそく契約書の作成をお願いするわ」
うつむいて顔を青ざめた伊藤が言った。
「かしこまりました。華鶴奥さま」
(「契約結婚」だと! 余計なことをしてくれたな)
航志朗は激しい怒りを感じたが、(絶対に、俺は彼女と離婚しない!)と胸の内で航志朗は叫んだ。
すぐに航志朗が安寿の目を見て言った。
「安寿さん、これから婚姻届を書こうか」
(「婚姻届」……)
安寿の頭のなかは真っ白になって、もう何も考えられなくなっていた。
その時、伊藤が航志朗に進言した。
「では、航志朗坊っちゃん。私があさっての月曜日に婚姻届の用紙を役所に取りに参ります」
そう言って伊藤はこの非常識な結婚を止めようとした。二日間でも先延ばしにすれば、安寿と航志朗が考え直すかもしれないと伊藤は考えた。
だが、航志朗は不敵に笑って言った。
「伊藤さん。婚姻届は、今、ここで、用意できますよ」
航志朗はオフィスのパソコンを開き、婚姻届のフォーマットをダウンロードしてプリンターで印刷した。それから、スーツの内ポケットから万年筆を取り出して、躊躇なくサインすると、航志朗はその万年筆を安寿の手に握らせた。あっという間の出来事だった。
(わ、私、今、いきなり、……けっ、結婚するの?)
安寿は隣にいる航志朗の顔をうかがった。航志朗は安寿を見つめて笑みを浮かべている。
(このひと、どうしてそんなに嬉しそうなの? わけがわからない)
それでも安寿はもうこの激流に呑み込まれたような成り行きにあらがうことはできなかった。安寿は万年筆を握り直し、どうしても震えてしまう右手でなんとか自分の名前を婚姻届にサインした。
婚姻届の証人欄の片方には華鶴にうながされた岸がサインした。サインする直前に岸は急に思いついたように言った。
「もう一つ、契約の条件を付け加える。それは、私が死んだ時だ。この契約した三つの条件のうち一つでも満たしたら、ふたりは、すみやかに離婚するように。伊藤さん、その時が来たら、必ずあなたが離婚の手続きを滞りなく進めてください」
伊藤は腰を深く折り曲げて言った。
「かしこまりました。宗嗣さま」
安寿は、初めて見る厳しい表情の岸の顔を見つめた。
サインが終わった婚姻届を丁寧に折りたたんでスーツの内ポケットにしまった航志朗は、放心状態の安寿の手を取って言った。
「安寿、まだ終わってないぞ。叔母さんのところへ行って説得するんだろう?」
(そうだった。それにしても、このひと、いきなり私の名前を呼び捨て?)
安寿は航志朗に抗議したい気持ちになった。
安寿は、今、何時だろうと思い、振り向いて時計を見ようとしたら、「午後四時前だ」とすぐに航志朗が答えた。
「大変! 早く帰らないと! 叔母は午後五時ごろ出かけるって言っていました」
「安寿、行くぞ」と言って、航志朗は有無を言わさず安寿を横向きで抱き上げた。思わず安寿は短い悲鳴をあげた。航志朗は両親の顔を一度も見ずに画廊の階段を勢いよく下りて行った。
階下に居合わせた画廊の顧客たちがいっせいに驚いた様子でふたりを見た。そのなかには彫刻家の川島もいた。「おやおや? あのおふたり、ただならないことになっているなあ」とつぶやいて、ぽかんと口を開けたまま川島は安寿と航志朗を見送った。
受付にいた伊藤が画廊のドアのガラス越しにふたりに気づき、血相を変えて飛び出して来た。
「安寿さま、いかがなされましたか! 航志朗坊っちゃん、ご帰国されていたのですか!」
伊藤がこんなに取り乱している姿を安寿も航志朗も初めて見た。
「安寿さま、オフィスの方で休んでくださいませ! 私が背負いますので、どうぞお乗りください!」と伊藤は大声を張りあげて、すぐさま安寿の前に背を向けてしゃがんだ。
思わず航志朗は苦笑いした。
(おいおい、伊藤さん。いくらなんでもそれは無理だろう。歳を考えろよ)
「このビルはエレベーターがないから、ここは俺に背負わせろ」と航志朗が強い口調で安寿に言い渡した。だが、安寿はまったく聞く耳を持たずに左足を引きずって、ひとりで階段を上り始めた。
(やれやれ、本当に頑固な性格だな……)
すぐさま安寿を後ろから支えて一緒に上りながら半ばあきれつつも、航志朗は改めて安寿の意志の強さに感心した。
当の安寿は、(皆さまの前で岸さんにおんぶしてもらうなんて、ものすごく恥ずかしくて、とてもじゃないけど無理!)と必死で抵抗していたのだった。
その一時間前から、岸はオフィスでいつものようにハーブティーを淹れて休憩を取っていた。そこへ来客の応対がひと段落した華鶴がやって来た。岸の前に座った華鶴は艶やかに美しい脚を組んで微笑みを浮かべた。沈黙したままの岸は視線を落とした。
突然、華鶴は岸に告げた。
「白戸安寿さんを岸家の養女にするわ」
岸は驚愕した顔を華鶴に向けたが、岸は何も言わない。ティーカップの中のハーブティーがゆらゆらと小刻みに揺れた。その黄色い波紋を見て、岸は自分の胸の激しい動悸に気がついた。顔をしかめながら、岸はハーブティーを飲み干した。
「安寿さんを養女にお迎えできるなんて、あなたは天にも昇る心地でしょう?」と華鶴は冷淡な笑みを浮かべ、刺々しく言い放った。岸は無言で空のティーカップを見つめた。
「そう、まさに天から降ってきた僥倖よね。だって、私は愛するあなたの本来の絵を、再び手に入れることができるんですもの。もちろん、大きなお金もね」
華鶴は片方の口角を上げて岸の肩に手を置いてから、個展会場に戻って行った。
安寿と航志朗は三階まで上がったところで階段を下りてくる華鶴と出くわした。華鶴はふたりを見下ろすと、航志朗の方は無視して、安寿に親身に言った。
「まあ、安寿さん、大変! いったいどうなさったの?」
とても優しい声だ。そして、航志朗を押しのけて安寿の肩を抱いた。航志朗は胸くそ悪く思った。
(なんだ、この態度は! 彼女は完全にこの女にだまされているんじゃないのか)
華鶴はそのまま安寿を支えて階段を上り、四階のオフィスのソファに安寿を座らせて、自分も隣に座った。向かい側に座っていた岸があわてて立ち上がり、「安寿さん、どうされましたか?」と心配そうに声をかけた。後ろからついて行った航志朗は険しい顔をして、ソファから少し離れた窓際の椅子に腰を下ろして腕組みをした。すぐに伊藤も続いてオフィスにやって来て奥に控えた。
安寿はオフィスの古めかしい木製の時計を見た。午後二時半だ。
(時間がない。すぐに華鶴さんと岸先生にお願いして、早く家に帰らなくちゃ!)
安寿の胸の鼓動が早まった。
「あの、私、……この近くで転んでしまいました。でも、岸さんがお医者さんに連れて行ってくださったので、もう大丈夫です」と安寿は申しわけなさそうに小さい声で言った。
即座に航志朗が付け加えた。
「僕のせいです。僕が彼女を転ばせてしまいました」
「いいえ、岸さんのせいではありません。私が勝手に転んだんです」
あわてて安寿が訂正した。
華鶴は航志朗を一瞥し、「わかったわ。本当にお大事にしてね、安寿さん」と実に心配そうに言った。
「はい。ありがとうございます」と目を伏せて言ってから、安寿は深く息を吸って姿勢を正した。
(早くお願いしなくちゃ。早く!)
その時、安寿はなぜか航志朗の方を見てしまった。航志朗はすぐにそれに気づいた。
その瞬間、ふたりは視線を交わした。
そして、安寿は前を向いて、岸と華鶴に深々と頭を下げて言った。
「岸先生、華鶴さん、私を岸家の養女にしてください。どうかお願いいたします」
華鶴は色鮮やかな花が満開になるように微笑み、岸は哀しい瞳をして安寿を見つめた。
「まあ、嬉しいわ、安寿さん! 私に可愛い娘ができるのね!」
華鶴は安寿の手を両手でしっかりと握った。
その光景を黙って見ていた航志朗が、安寿に問いかけた。落ち着いてはいるが重々しい声だ。
「なぜ、今、君は岸家の養女になるんだ? 君のご両親は承諾したのか?」
安寿は冷静に航志朗に向かって説明した。
「私には両親がいません。私の家族は母の妹の叔母ひとりだけです。今、叔母は恋人に求婚されていますが、私のために叔母は結婚に踏み切れません。私は叔母のために早く自立しなければと思っています。それで、華鶴さんにご相談させていただいたら、養女のお申し出をいただきました」
その言葉の途中から華鶴の大理石でできた彫刻のような美しい手は、安寿の背中を優しく支えた。
いきなり航志朗は痛烈な衝撃を受けた。
(両親がいない? 俺は彼女のことを何も知らないんだな……)
そして、航志朗は疑念を感じた。
(でも、彼女の叔母は自分が結婚するために、姪が岸家の養女になるなんて、絶対に納得するはずがないだろう)
頭を抱えて航志朗は考え始めた。
(よく考えろ、この状況の最適解はなんだ? よく考えるんだ……)
必死に航志朗は考えた。安寿を守るために。
その時、突然、航志朗にあるひらめきが降ってきた。
(そうか! 最適解どころか、正解はこれしかない!)
口元に笑みを浮かべて航志朗はこぶしを握りしめた。
先程からずっと黙り込んだ航志朗に顔を向けて、華鶴が言った。
「航志朗さん、あなたに異存はないわよね? いちおう家族の一員として訊いておくけれど」
それに対して航志朗は強く厳しい口調で反論した。
「僕は反対です。だいたい安寿さんの叔母さんが承知するわけがないでしょう」
安寿はその言葉を聞いて底なし沼に突き落とされた感じがした。息苦しくなって思わず涙が出そうになる。
安寿は追い詰められながら、頭のなかで叫んだ。
(もう時間がない! 私のせいで恵ちゃんと優仁さんが別れるなんて、絶対にいや! いったい私はどうしたらいいの?)
すると、航志朗がすっと椅子から立ち上がり、安寿のすぐそばまでやって来た。
航志朗は安寿の前にひざまずいて、明るい笑顔を浮かべて言った。
「安寿さん。今、君は何歳?」
「……十八歳ですけれど」
「じゃあ、法律的には、なんの問題もないな」
(「法律的」? どういうことなの……)
安寿は怪訝そうな表情を航志朗に向けた。
航志朗は安寿の瞳をまっすぐに見つめて、胸に手を当てて言った。
「安寿さん、僕と結婚しませんか?」
「けっ、……結婚!?」
安寿は突然の航志朗のプロポーズに仰天した。
まず口を開いたのは岸だった。
「航志朗、何てばかなことを言い出すんだ! まだ高校生の安寿さんと結婚なんて、とんでもないだろう!」
安寿の前で初めて岸は声を荒げた。
華鶴はさも愉快そうに笑いながら言った。
「航志朗さん。あなた、何をおっしゃっているの? あなたみたいな女性にだらしがないひとに、安寿さんが結婚を承諾するわけがないでしょう」
航志朗は両親の反応をまったく意に介さずに、あぜんとした安寿にさらに尋ねた。
「今日、君はずっと時間を気にして急いでいるけれど、どうしてなんだ?」
「叔母が、今夜、恋人と別れようとしているんです。……私のせいで」
安寿は肩を震わせながら微かな声で答えた。
「そうか。だから、君は、今、自分の身の振り方を決めて、叔母さんを止めようとしているんだね」
「……そうです」と言って、安寿は下を向いて唇を固く結んだ。
航志朗は安寿の目の前に右手をそっと差し伸べて言った。
「わかった。俺が君に協力するよ」
安寿はその航志朗の手をしばらく見つめてから、顔を上げて航志朗の目を見た。その琥珀色の瞳は穏やかに透き通っている。安寿は何も言わずに航志朗を見つめながら、吸い込まれるように航志朗の右手に自分の右手を重ねた。航志朗は安寿の右手をしっかりと握った。
それを見届けた華鶴があきれ返った様子で言った。
「あらあら。あなたたちは、今夜のためにとりあえず結婚するというのね。でも、安寿さんが自立するまでという契約の上での結婚ということでしょう。だって、お互いに愛し合って決めた結婚じゃないんだから。まあ、安寿さんの将来のためにも期限付きならいいんじゃないのかしら。ねえ、宗嗣さん?」
華鶴は岸に視線を向けた。華鶴の口元は冷たく笑っていた。無表情の岸はしばらく目を閉じて考えてから言った。
「期限付きの契約をするというなら、私はこの結婚を認めよう。結婚の期限の一つ目は、安寿さんが自立した時。そして、二つ目は、安寿さんがモデルの人物画を私が描き終えた時だ。それに加えて、離婚が成立したら、岸家は安寿さんに相応の慰謝料を支払うことも契約条件に入れる」
それを聞いて、華鶴は目を細めてから伊藤に言った。
「伊藤、さっそく契約書の作成をお願いするわ」
うつむいて顔を青ざめた伊藤が言った。
「かしこまりました。華鶴奥さま」
(「契約結婚」だと! 余計なことをしてくれたな)
航志朗は激しい怒りを感じたが、(絶対に、俺は彼女と離婚しない!)と胸の内で航志朗は叫んだ。
すぐに航志朗が安寿の目を見て言った。
「安寿さん、これから婚姻届を書こうか」
(「婚姻届」……)
安寿の頭のなかは真っ白になって、もう何も考えられなくなっていた。
その時、伊藤が航志朗に進言した。
「では、航志朗坊っちゃん。私があさっての月曜日に婚姻届の用紙を役所に取りに参ります」
そう言って伊藤はこの非常識な結婚を止めようとした。二日間でも先延ばしにすれば、安寿と航志朗が考え直すかもしれないと伊藤は考えた。
だが、航志朗は不敵に笑って言った。
「伊藤さん。婚姻届は、今、ここで、用意できますよ」
航志朗はオフィスのパソコンを開き、婚姻届のフォーマットをダウンロードしてプリンターで印刷した。それから、スーツの内ポケットから万年筆を取り出して、躊躇なくサインすると、航志朗はその万年筆を安寿の手に握らせた。あっという間の出来事だった。
(わ、私、今、いきなり、……けっ、結婚するの?)
安寿は隣にいる航志朗の顔をうかがった。航志朗は安寿を見つめて笑みを浮かべている。
(このひと、どうしてそんなに嬉しそうなの? わけがわからない)
それでも安寿はもうこの激流に呑み込まれたような成り行きにあらがうことはできなかった。安寿は万年筆を握り直し、どうしても震えてしまう右手でなんとか自分の名前を婚姻届にサインした。
婚姻届の証人欄の片方には華鶴にうながされた岸がサインした。サインする直前に岸は急に思いついたように言った。
「もう一つ、契約の条件を付け加える。それは、私が死んだ時だ。この契約した三つの条件のうち一つでも満たしたら、ふたりは、すみやかに離婚するように。伊藤さん、その時が来たら、必ずあなたが離婚の手続きを滞りなく進めてください」
伊藤は腰を深く折り曲げて言った。
「かしこまりました。宗嗣さま」
安寿は、初めて見る厳しい表情の岸の顔を見つめた。
サインが終わった婚姻届を丁寧に折りたたんでスーツの内ポケットにしまった航志朗は、放心状態の安寿の手を取って言った。
「安寿、まだ終わってないぞ。叔母さんのところへ行って説得するんだろう?」
(そうだった。それにしても、このひと、いきなり私の名前を呼び捨て?)
安寿は航志朗に抗議したい気持ちになった。
安寿は、今、何時だろうと思い、振り向いて時計を見ようとしたら、「午後四時前だ」とすぐに航志朗が答えた。
「大変! 早く帰らないと! 叔母は午後五時ごろ出かけるって言っていました」
「安寿、行くぞ」と言って、航志朗は有無を言わさず安寿を横向きで抱き上げた。思わず安寿は短い悲鳴をあげた。航志朗は両親の顔を一度も見ずに画廊の階段を勢いよく下りて行った。
階下に居合わせた画廊の顧客たちがいっせいに驚いた様子でふたりを見た。そのなかには彫刻家の川島もいた。「おやおや? あのおふたり、ただならないことになっているなあ」とつぶやいて、ぽかんと口を開けたまま川島は安寿と航志朗を見送った。