今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
(こんなことをしている場合じゃないのに……)
安寿は自室のベッドから抜け出して、ロングニットワンピースを被った。カーペットの上に無造作に脱ぎ捨てられた二枚の着物を丁寧にたたんでまとめた。散らばった小物類もその上に置いた。
ルリから借りたままになっている油絵道具をクローゼットから取り出した。イーゼルを窓辺に組み立ててから、描きかけの大きなキャンバスを置いて安寿は絵を描き始めた。
振り返ると寝息をたてた航志朗が気持ちよさそうにベッドで眠っている。安寿は立ち上がって何も着ていない航志朗の肩に毛布を掛け直した。
キャンバスの上を擦る画筆の微かな音に航志朗は目を覚ました。品のよいベージュ色の安寿の背中が見えた。絵を描くことに安寿は集中していて、航志朗が起き上がったことに気づかず振り向きもしない。一人きりで航志朗は取り残されたような気分になった。航志朗は毛布を被って安寿の背後に立ち、いきなり安寿を後ろからきつく抱きしめた。まだ素っ裸のままの航志朗の引き締まった胸が背中にあたって、安寿は現実に引き戻された。
頬を赤らめた安寿は振り返って言った。
「服を着てください、航志朗さん。風邪をひいてしまいますから」
「うん、わかってる。安寿、何を描いているんだ、抽象画か?」
安寿の目の前のキャンバスには一面に白い光景が描かれている。見ようによっては容が描いた白い川の流れのようだが、安寿の絵にはリアリティーがまったくない。夢のなかに立ちこめる幻のようだ。
「わかりません。自分で描いているのに変ですよね。ルリさんのお兄さんの油絵道具の箱には白の油絵具がたくさん入っていたのに、全然使われていないままだったんです。その白のチューブを手に取ったら、なんとなくこんな光景が目の前に浮かんできて……」
「そうか。君の『白の光景』か。安寿、前から訊いてみたかったんだけど」
「はい。なんでしょう」
「君は自分の個展を開催する気はあるか?」
突然の航志朗の問いに安寿は何も答えられない。
「海外のどこかの街のギャラリーで、たとえばニューヨークのチェルシーとか、ロンドン、パリ、香港や、もしくは国際的なアートフェアに出品するんだったら、スイスのバーゼルとか」
「私、わかりません」
「わからない? 本気でアーティストを目指すんだったら、いくらでも俺が君のプロデュースをする。なにしろ俺は君のギャラリストだからな」
「航志朗さん。私、どうしたらいいのかわからないんです」
「何がわからないんだ?」
安寿は少し躊躇してから小声で言った。
「大学を卒業した後、どうしたらいいのか。三年次になったら就職活動が始まるのに」
笑みを浮かべた航志朗は安寿の頬にキスして言った。
「安寿、わざわざ就職活動なんてしなくていいだろ。君はもう将来が決まっているんだから」
「航志朗さん……」
「君は俺の妻だ。今もこれからもずっと。そうだろ、安寿?」
そう言うと、航志朗は安寿の左手の結婚指輪に自分の結婚指輪を重ねた。白い穂先の画筆を握ったまま安寿は下を向いたが、航志朗の目にはその安寿の姿が自分の言葉にこくんとうなずいて承諾したと見えた。その安寿の態度に心から安堵したせいか、航志朗は突然大きなくしゃみをした。すぐに安寿はエアコンのリモコンを手に取って設定温度を上げた。
「航志朗さん、早く服を着てください!」と安寿が大声をあげて、この会話は嚙み合わずに途切れた。この時、ふたりは互いの想いがすれ違ったことに気づかなかった。
白い光景を安寿は描き続けた。安寿は一週間後の航志朗と離れ離れになる日を意識した。本当は、ずっと航志朗とベッドの中で抱き合っていたかった。でも、時間がないのだ。
安寿は自室のベッドから抜け出して、ロングニットワンピースを被った。カーペットの上に無造作に脱ぎ捨てられた二枚の着物を丁寧にたたんでまとめた。散らばった小物類もその上に置いた。
ルリから借りたままになっている油絵道具をクローゼットから取り出した。イーゼルを窓辺に組み立ててから、描きかけの大きなキャンバスを置いて安寿は絵を描き始めた。
振り返ると寝息をたてた航志朗が気持ちよさそうにベッドで眠っている。安寿は立ち上がって何も着ていない航志朗の肩に毛布を掛け直した。
キャンバスの上を擦る画筆の微かな音に航志朗は目を覚ました。品のよいベージュ色の安寿の背中が見えた。絵を描くことに安寿は集中していて、航志朗が起き上がったことに気づかず振り向きもしない。一人きりで航志朗は取り残されたような気分になった。航志朗は毛布を被って安寿の背後に立ち、いきなり安寿を後ろからきつく抱きしめた。まだ素っ裸のままの航志朗の引き締まった胸が背中にあたって、安寿は現実に引き戻された。
頬を赤らめた安寿は振り返って言った。
「服を着てください、航志朗さん。風邪をひいてしまいますから」
「うん、わかってる。安寿、何を描いているんだ、抽象画か?」
安寿の目の前のキャンバスには一面に白い光景が描かれている。見ようによっては容が描いた白い川の流れのようだが、安寿の絵にはリアリティーがまったくない。夢のなかに立ちこめる幻のようだ。
「わかりません。自分で描いているのに変ですよね。ルリさんのお兄さんの油絵道具の箱には白の油絵具がたくさん入っていたのに、全然使われていないままだったんです。その白のチューブを手に取ったら、なんとなくこんな光景が目の前に浮かんできて……」
「そうか。君の『白の光景』か。安寿、前から訊いてみたかったんだけど」
「はい。なんでしょう」
「君は自分の個展を開催する気はあるか?」
突然の航志朗の問いに安寿は何も答えられない。
「海外のどこかの街のギャラリーで、たとえばニューヨークのチェルシーとか、ロンドン、パリ、香港や、もしくは国際的なアートフェアに出品するんだったら、スイスのバーゼルとか」
「私、わかりません」
「わからない? 本気でアーティストを目指すんだったら、いくらでも俺が君のプロデュースをする。なにしろ俺は君のギャラリストだからな」
「航志朗さん。私、どうしたらいいのかわからないんです」
「何がわからないんだ?」
安寿は少し躊躇してから小声で言った。
「大学を卒業した後、どうしたらいいのか。三年次になったら就職活動が始まるのに」
笑みを浮かべた航志朗は安寿の頬にキスして言った。
「安寿、わざわざ就職活動なんてしなくていいだろ。君はもう将来が決まっているんだから」
「航志朗さん……」
「君は俺の妻だ。今もこれからもずっと。そうだろ、安寿?」
そう言うと、航志朗は安寿の左手の結婚指輪に自分の結婚指輪を重ねた。白い穂先の画筆を握ったまま安寿は下を向いたが、航志朗の目にはその安寿の姿が自分の言葉にこくんとうなずいて承諾したと見えた。その安寿の態度に心から安堵したせいか、航志朗は突然大きなくしゃみをした。すぐに安寿はエアコンのリモコンを手に取って設定温度を上げた。
「航志朗さん、早く服を着てください!」と安寿が大声をあげて、この会話は嚙み合わずに途切れた。この時、ふたりは互いの想いがすれ違ったことに気づかなかった。
白い光景を安寿は描き続けた。安寿は一週間後の航志朗と離れ離れになる日を意識した。本当は、ずっと航志朗とベッドの中で抱き合っていたかった。でも、時間がないのだ。