今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 「安寿! どうした、大丈夫か?」

 アトリエの中に航志朗が駆け込んできた。顔を上げて安寿は大声で言った。

 「航志朗さん!」

 今にも泣き出しそうな顔で安寿は航志朗に抱きついた。航志朗は安寿を抱きとめて言った。

 「皓貴さんに何か言われたのか、安寿?」

 大きく首を振って、安寿は航志朗にきつくしがみつきながら思った。

 (航志朗さんがさっきのあのひとの話を聞いたらどう思うんだろう。いったい私はどうしたらいいの……)

 航志朗に肩を抱かれて支えられながら安寿は自室に戻って来た。ベッドにふたりで腰掛けると航志朗が言いづらそうに口を開いた。

 「安寿、父が検査入院することになった。午後から大学病院に行く」

 「ええっ! 入院って、岸先生、どこかお身体の具合がよくないんですか?」

 驚いた安寿が大声で叫んだ。

 「落ち着け、安寿。父は生まれつき心臓の持病があるんだ。ただの定期的なメディカルチェックだよ。心配するな」

 顔を真っ青にして安寿は航志朗の顔を見つめた。

 「いい機会だから話しておこう。祖母も心臓に持病があって、子供の頃からずっと薬を飲んでいた。当時の医療では出産に耐えられないと医師に言われていたが、彼女は無事に父を産んだ」

 (きっと恵真さまは命をかけて……)と安寿は思った。急に大きな不安が襲ってきて、安寿は早口で航志朗に尋ねた。

 「航志朗さんは? 航志朗さんは大丈夫なんですか!」

 軽く笑って航志朗は答えた。

 「俺のことを心配してくれるのか、安寿。安心しろ、俺は大丈夫だ。子どもの頃、父の主治医に精密検査を受けたけれど、なんの問題もなかった」

 「そうですか……」

 安寿は肩を落としてため息をついた。

 (よかった。本当によかった。でも、岸先生のお身体がとても心配。この一か月間、ずいぶんと根を詰めて絵を描いていらしたから)

 次の日の朝も安寿と航志朗は岸家の裏の森へ出かけた。突然の黒川の来訪からずっと航志朗は元気がない。昨日の夕食もあまり食べずに咲に心配されていたし、昨晩もよく眠れないようだった。

 池のほとりで黙って寄り添いながら、ふたりは互いの温もりを惜しむように感じていた。安寿は池を見つめる航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。今朝の航志朗の瞳は灰色がかった陰を帯びて見える。安寿は航志朗の手を握りしめて強い口調で言った。

 「航志朗さん、私を売るなんて思わないでください!」

 うつむいて航志朗は苦しそうに答えた。

 「いや、はじめから俺は君を売っているんだ。まぎれもなく君を売って金にしている。皓貴さんに言われるまでもなく、これは事実だ」

 安寿は航志朗の腕をきつく抱きしめた。そして、安寿は航志朗の腕に顔を押しつけて小声で言った。

 「航志朗さん、それは違います。だって、岸先生が描く絵のなかの私は、私じゃないから」

 航志朗は安寿を不思議そうに見つめた。続けて安寿は言った。少し哀しそうな表情を浮かべながら。

 「いつのころからか、私、感じていたんです。岸先生はモデルの私の姿を見ているけれど、本当は私を見ていない」

 「どういうことなんだ、安寿?」

 「なんて言ったらいいのか、岸先生のなかには、美しい女神(ミューズ)がいるような気がするんです。岸先生はその女神を描いていらっしゃる。私はただの影です。その女神を投影するスクリーンのようなもの。岸先生が描く女性は私じゃない。だから、航志朗さんは私を売っていることにはならない」

 ふいに航志朗の瞳から涙がひとすじ流れ落ちた。安寿は優しく微笑んで航志朗を胸に抱きしめた。震える声を絞り出して航志朗が言った。

 「安寿、なんて君は優しい心を持ったひとなんだ。俺は、俺は……」

 安寿の胸は航志朗の涙で温かく湿っていく。小さな子どものようにしがみついてくる航志朗の感触に安寿はきつく胸をしめつけられる。

 (今までずっと、航志朗さんはとてもつらい想いを一人きりで抱え込んできたんだ……)

 耳まで赤くなった航志朗が無理やり涙を押さえつけようと身体を硬直させているのを感じて、涙ぐんだ安寿は航志朗の髪をなでながら言った。

 「航志朗さん、たくさん泣いていいんですよ。あなたは一人じゃない。私があなたと一緒にいますから」

 ひとしきり航志朗は泣いていた。やがて、顔を上げた航志朗は真っ赤な目を細めて安寿を見つめた。安寿は航志朗のまなざしをしっかりと受け止めて朗らかに言った。

 「航志朗さん。私、お腹が空いちゃった。家に帰って一緒にフレンチトーストをつくって食べましょうよ。もちろん溶かしたチョコレートをいっぱいかけてね」

 急に笑顔になった航志朗は恥ずかしそうにうなずいた。

 安寿と手をつないで岸家に戻りながら、航志朗はまぶしそうに安寿を見つめながら胸の内で思った。

 (安寿が言う父の「女神」の正体が誰なのか、俺は知っている。だが、もう俺は怖くはない。安寿が俺と一緒にいてくれるから)

 安寿も森の樹々を見ながらひそかに思っていた。

 (私は航志朗さんを守ることができる。彼を本当に心から愛しているから……)
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