今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第4節
「安寿。それって、ラフマニノフのピアノ協奏曲?」
その黒川がふと漏らした言葉に安寿の集中が途切れた。画筆を持ったまま、安寿は畳の上に倒れ込んだ。知らず知らずのうちにそのメロディーを口ずさんでいた。年明けから一週間延長された休暇中に、毎晩、航志朗は岸家のサロンに置いてあるグランドピアノでその曲を奏でてくれた。航志朗の隣に座った安寿は彼に寄り添って、その甘美な曲に身も心もたゆたわせた。
「水を飲んだらいい、安寿」
黒川はかがんで安寿の目の前に透き通った水が注がれたグラスを差し出した。黒川家の裏手にある井戸の水だ。黙って受け取った安寿は顔をしかめて起き上がって、ごくごくと音を立ててその水を乾ききった喉に流し込んだ。飲み終わるとまた安寿は畳の上に仰向けになった。安寿を取り囲んだ襖には、岸家の裏の森を描いた骨書が果てしなく広がっていた。そこに少しずつ岩絵具が森の線画にしめやかに染み込んでいく。真っ黒な瞳で自分を失くして描き続ける安寿の手によって。
黒川家の広間の襖絵の骨書が終わって着彩を始めてからずいぶんと時が経った。黒川家に通い出してから、もうすぐ一年になる。
「大丈夫かい? 安寿」
手を伸ばして髪に触れようとしてきた黒川の手を払って、安寿は起き上がって叫んだ。その胸の内でだ。
(私に触らないで! もう私の名前を親しげに何回も呼ばないで!)
どうしても安寿はその言葉を黒川に言えなかった。黒川の顔を見るのを避けて、ただ下を向いて畳をにらむのが精いっぱいだ。
障子のすき間を見ると外は真っ暗になっている。安寿はうつむいたまま黒川に言った。
「今日は、これで終わりにします」
黒川が運転するダークグレーの車の後部座席に乗って、安寿は車の窓の外を見上げた。濃く立ち込めた雲の向こうにわずかな月明かりを感じた。鎌倉駅の前で安寿は黒川の車から降りると、ひと言のあいさつさえも交わさずに安寿は駅に向かって行った。その安寿の後ろ姿が見えなくなるまで、黒川はずっと安寿を見つめていた。
新しい春が来て、安寿は清華美術大学の三年次に進級した。この春に安寿は大切なひととの別れを経験した。莉子が京都に行ってしまったのだ。突然二月の半ばに、安寿は莉子から彼女の固い決意を知らされた。
「安寿ちゃん、私、受かっちゃったの! どうしよう、安寿ちゃん!」
いきなり莉子が大学の油絵学科のアトリエでキャンバスに向かっていた安寿に抱きついてきて叫んだ。
「受かった? どういうこと、莉子ちゃん?」
「あのね、大学の入学試験に」
さっぱりわけがわからずに安寿は首をかしげた。
興奮ぎみの莉子は安寿に脈絡がない話し方で説明した。まず莉子は一週間前に京都の大学の入学試験を受けたと言って、それからたった今、合格がわかったと言った。
「……入学試験?」
また安寿は首をかしげた。莉子はすでに大学二年生だ。
「春香お母さんだけにしか言ってなかったの。大翔くんに言ったら、絶対に反対されると思って」
「春香お母さん」は、大翔の母の名前だ。昨年の夏に熊本へ行く途中で京都に寄った際に、大翔から紹介された。洗いざらしの作務衣を着こなしてどっしりと肝がすわった女だった。染色業を営む宇田川家に嫁いで二十数年以上、毎日染色液に浸された手の指先は、正倉院の宝物の螺鈿細工のように美しかった。
「安寿ちゃん。私ね、宇田川家の染色業を継ごうって決めたの。だって春香お母さんとお父さんを見ていて、染色って本当に素敵だって思った。天然の色素からあんなに美しく布が染め上がるなんて!」
やっと安寿は莉子の言おうとしていることがわかってきた。
「だから染色を学ぼうと思ったんだね、京都の大学で。清美大では学べないから」
素直に莉子はうなずいた。
安寿は大声を出して言った。
「莉子ちゃん、すごい! いろいろ考えて決めたんだね。大学に入り直すなんて、なかなかできることじゃないよ」
「うん……。実は、思い立ったのが今年のお正月だったから、一か月ちょっとしか受験勉強しなかったんだ。とにかく過去問を全部やってみただけで。実技試験の石膏デッサンは自信があったけど、まさか合格できるとは思わなかった」
「莉子ちゃん、合格おめでとう!」
「ありがとう、安寿ちゃん……」
「でも、大翔くんには、まだ言ってないんだね?」
また莉子はうんと小さな女の子のようにうなずいた。
「じゃあ、早く伝えなくちゃ、莉子ちゃん!」
莉子は安寿の手をきつく握って言った。
「お願いだから一緒に来て、安寿ちゃん!」
その後の二日間、莉子と大翔は口をきかなかった。安寿はそんなふたりを温かく見守っていた。黙り込んだ三人が大学のカフェテリアのすみに座っていると、何も知らない容がやって来て不思議そうな顔をして安寿に耳打ちした。
「安寿さん。あのご婚約中のおふたり、ものすごく険悪なムードをかもし出しているけど、大げんかでもしたの?」
安寿も容に耳打ちして状況を説明した。容はにんまりと嬉しそうに笑った。莉子と大翔の置かれた状況がわかったからではない。間近で安寿と触れ合えたからだ。むっとした顔で莉子は容を思いきりにらんだが、容はまったく動じなかった。
その黒川がふと漏らした言葉に安寿の集中が途切れた。画筆を持ったまま、安寿は畳の上に倒れ込んだ。知らず知らずのうちにそのメロディーを口ずさんでいた。年明けから一週間延長された休暇中に、毎晩、航志朗は岸家のサロンに置いてあるグランドピアノでその曲を奏でてくれた。航志朗の隣に座った安寿は彼に寄り添って、その甘美な曲に身も心もたゆたわせた。
「水を飲んだらいい、安寿」
黒川はかがんで安寿の目の前に透き通った水が注がれたグラスを差し出した。黒川家の裏手にある井戸の水だ。黙って受け取った安寿は顔をしかめて起き上がって、ごくごくと音を立ててその水を乾ききった喉に流し込んだ。飲み終わるとまた安寿は畳の上に仰向けになった。安寿を取り囲んだ襖には、岸家の裏の森を描いた骨書が果てしなく広がっていた。そこに少しずつ岩絵具が森の線画にしめやかに染み込んでいく。真っ黒な瞳で自分を失くして描き続ける安寿の手によって。
黒川家の広間の襖絵の骨書が終わって着彩を始めてからずいぶんと時が経った。黒川家に通い出してから、もうすぐ一年になる。
「大丈夫かい? 安寿」
手を伸ばして髪に触れようとしてきた黒川の手を払って、安寿は起き上がって叫んだ。その胸の内でだ。
(私に触らないで! もう私の名前を親しげに何回も呼ばないで!)
どうしても安寿はその言葉を黒川に言えなかった。黒川の顔を見るのを避けて、ただ下を向いて畳をにらむのが精いっぱいだ。
障子のすき間を見ると外は真っ暗になっている。安寿はうつむいたまま黒川に言った。
「今日は、これで終わりにします」
黒川が運転するダークグレーの車の後部座席に乗って、安寿は車の窓の外を見上げた。濃く立ち込めた雲の向こうにわずかな月明かりを感じた。鎌倉駅の前で安寿は黒川の車から降りると、ひと言のあいさつさえも交わさずに安寿は駅に向かって行った。その安寿の後ろ姿が見えなくなるまで、黒川はずっと安寿を見つめていた。
新しい春が来て、安寿は清華美術大学の三年次に進級した。この春に安寿は大切なひととの別れを経験した。莉子が京都に行ってしまったのだ。突然二月の半ばに、安寿は莉子から彼女の固い決意を知らされた。
「安寿ちゃん、私、受かっちゃったの! どうしよう、安寿ちゃん!」
いきなり莉子が大学の油絵学科のアトリエでキャンバスに向かっていた安寿に抱きついてきて叫んだ。
「受かった? どういうこと、莉子ちゃん?」
「あのね、大学の入学試験に」
さっぱりわけがわからずに安寿は首をかしげた。
興奮ぎみの莉子は安寿に脈絡がない話し方で説明した。まず莉子は一週間前に京都の大学の入学試験を受けたと言って、それからたった今、合格がわかったと言った。
「……入学試験?」
また安寿は首をかしげた。莉子はすでに大学二年生だ。
「春香お母さんだけにしか言ってなかったの。大翔くんに言ったら、絶対に反対されると思って」
「春香お母さん」は、大翔の母の名前だ。昨年の夏に熊本へ行く途中で京都に寄った際に、大翔から紹介された。洗いざらしの作務衣を着こなしてどっしりと肝がすわった女だった。染色業を営む宇田川家に嫁いで二十数年以上、毎日染色液に浸された手の指先は、正倉院の宝物の螺鈿細工のように美しかった。
「安寿ちゃん。私ね、宇田川家の染色業を継ごうって決めたの。だって春香お母さんとお父さんを見ていて、染色って本当に素敵だって思った。天然の色素からあんなに美しく布が染め上がるなんて!」
やっと安寿は莉子の言おうとしていることがわかってきた。
「だから染色を学ぼうと思ったんだね、京都の大学で。清美大では学べないから」
素直に莉子はうなずいた。
安寿は大声を出して言った。
「莉子ちゃん、すごい! いろいろ考えて決めたんだね。大学に入り直すなんて、なかなかできることじゃないよ」
「うん……。実は、思い立ったのが今年のお正月だったから、一か月ちょっとしか受験勉強しなかったんだ。とにかく過去問を全部やってみただけで。実技試験の石膏デッサンは自信があったけど、まさか合格できるとは思わなかった」
「莉子ちゃん、合格おめでとう!」
「ありがとう、安寿ちゃん……」
「でも、大翔くんには、まだ言ってないんだね?」
また莉子はうんと小さな女の子のようにうなずいた。
「じゃあ、早く伝えなくちゃ、莉子ちゃん!」
莉子は安寿の手をきつく握って言った。
「お願いだから一緒に来て、安寿ちゃん!」
その後の二日間、莉子と大翔は口をきかなかった。安寿はそんなふたりを温かく見守っていた。黙り込んだ三人が大学のカフェテリアのすみに座っていると、何も知らない容がやって来て不思議そうな顔をして安寿に耳打ちした。
「安寿さん。あのご婚約中のおふたり、ものすごく険悪なムードをかもし出しているけど、大げんかでもしたの?」
安寿も容に耳打ちして状況を説明した。容はにんまりと嬉しそうに笑った。莉子と大翔の置かれた状況がわかったからではない。間近で安寿と触れ合えたからだ。むっとした顔で莉子は容を思いきりにらんだが、容はまったく動じなかった。