今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
航志朗と蒼は目を見合わせた。蒼の瞳の奥に微かだが鋭い敵意を感じる。ビジネスライクな笑顔を作って航志朗は言った。
「ありがとう、星野くん。安寿は元気にしていますよ」
何かを蒼は口に出そうとしたが、アンヌが蒼の腕に手を回して、蒼の頬にキスして言った。
「そんなに怖い顔しないで、アオイ」
親しげに蒼はアンヌの腰に手を回して引き寄せると、アンヌの頬にキスしてからフランス語で言った。
「アンヌ、俺が怖い顔をしているように見える?」
「うん」とアンヌは可愛らしくうなずいて蒼を見上げた。蒼は微笑んでアンヌの唇に軽くキスした。
一瞬、顔をしかめて航志朗は思った。
(このふたり、……付き合っているのか?)
ノアとロマンをふと見ると、ふたりは微笑み返してきた。
メイドがティーセットをワゴンにのせて運んで来た。五人はソファに座った。航志朗はノアの隣に、アンヌの両脇には蒼とロマンが座った。しばらくベルガモットの香りを楽しんでから、待ちきれない様子でノアが航志朗に催促した。
「コーシ。さっそくですが、ムッシュ・キシの作品をお披露目いただけないでしょうか?」
うなずいた航志朗は蒼の冷ややかな視線を感じた。
アタッシェケースを解錠して白手袋をはめた航志朗は安寿の絵を取り出してノアに渡した。一瞬でノアは表情を変えて叫んだ。
「素晴らしい……。なんて美しいんだ!」
「ノア、僕にも見せて見せて!」
ソファから立ち上がったロマンはノアの隣に腰掛けて絵をのぞき込んだ。ロマンはぽかんと口を開けて固まった。
微笑みながらアンヌが言った。
「ねえノア、私にも見せて。彼女の絵を」
ノアは立ち上がってアンヌに絵を手渡した。アンヌは絵のなかの安寿と目を合わせて微笑みを浮かべた。
「彼女が、アンジュ。……アオイの初恋のひと」
その言葉に心底驚いた航志朗が蒼を見た。蒼はアンヌの腰に腕を回しながら絵の中の安寿と再会した。
「そう。ずっと俺が心から愛しているひとだよ、アンヌ」
ノアもロマンも航志朗に向かって笑いかけてきた。その異様な雰囲気を感じた航志朗に嫌な予感が襲ってきた。
次の日は月曜日だった。帰り際に蒼から明日の早朝にリュクサンブール公園で待っていると言われた。気が進まなかったが、早起きして航志朗はホテル近くのカフェで軽く朝食をとってから公園に向かった。
公園には老若男女を問わずにジョギングをする健康的な人びとが大勢いた。欧米の大きな公園ではよく見かける朝の光景だ。すぐに航志朗は蒼に気づいた。蒼は一人きりで池のほとりのベンチに腰掛けてスマートフォンを繰っていた。
「星野くん、何か俺に話でも?」
航志朗が蒼の前に立って話しかけると、冷たい微笑みを浮かべた蒼がスマートフォンの画面を見せながら言った。
「高校の時の安寿の写真をごらんになられますか? あなたが知らない彼女を」
一瞬、蒼のスマートフォンを航志朗は見た。グレーの制服を着た高校生の安寿が陽が傾きかけた教室のかたすみで楽しそうに笑っていた。
「いや、けっこうだ。それよりも手短に話をお願いできるかな。これから仕事なんだ」
「では、率直に申しあげましょうか」
そう言うと蒼はベンチから立ち上がった。
「岸さん。あなたは安寿を冒涜している」
急に激しい怒りがこみ上げてきたが、冷静さを保って航志朗は低い声で静かに蒼に言った。
「『冒涜』? 星野くん、君は俺と安寿の何を知っているんだ? 何も知らないだろ」
「すべて知っていますよ。あなたと安寿は、兄妹なんでしょう?」
いきなり胸を突かれた航志朗は何も答えられなかった。どうしても「それは違う」とは言えない。
「安寿がかわいそうだ。彼女は高校生の時にあなたのことが好きだと言っていた。そして、自立したら離婚する契約になっていると。……そうですよね、岸さん?」
航志朗は複雑な表情を浮かべた。歓喜とも悲哀ともいえない感情が航志朗の頭のなかを駆けめぐる。
蒼は明らかに航志朗を見下した態度で続けて言った。
「そして、あなたは安寿をご自分の思うがままにもてあそんでいるんですよね? 彼女の純粋な好意をあなたの都合のいいように利用して」
「は? 何を言っているんだ。君は何も知らないくせに!」
思わず航志朗は声を荒げた。
「知っていますよ。俺は見たんですから。ニースのアンヌの実家であの絵を。あなたの父親が描いたあの官能的な安寿の母親の絵をね」
航志朗は険しい目つきをして言った。
「君は俺に何が言いたいんだ?」
「安寿と早く別れてください。あとは俺が引き受けますから」
蒼はまっすぐに航志朗の琥珀色の瞳を見すえた。航志朗も蒼に強いまなざしで見返した。
二人の男は相対して言い争った。
「そんなことできるわけがないだろ。俺たちは心から愛し合っている。君だってアンヌと愛し合っているんじゃないのか」
「いいえ。俺が愛しているのは安寿だけです。アンヌは全部知っていますよ。彼女からは『それでもいいから、私を抱いてほしい』と言われました」
「じゃあ、君は心のなかで安寿を想いながら、愛してもいないアンヌを抱いているということか。君こそアンヌを冒涜しているんじゃないのか」
「それは違いますね、岸さん。俺はアンヌにうそをついていませんから、冒涜にはならない。でも、あなたは安寿にうそをついている。そうですね?」
「俺は安寿にうそをついていない。父と安寿の母親の関係をまだ彼女に話していないだけだ!」
ついに航志朗は怒鳴り声をあげた。
「それがうそをついていると言うんですよ。そんなこともわからないんですか? 笑えますね、無能すぎて」と言い放った蒼だが、蒼は笑っていない。思い詰めた真剣な表情だった。
「岸さん、とにかく安寿と別れてください。彼女のために。それでは失礼します。俺は授業がありますので」
背を向けて蒼は航志朗の前から去って行った。うなだれた航志朗はこぶしをきつく握りしめてつぶやいた。
「俺は安寿を愛しているんだ。愛しているからこそ、本当のことを伝えられないんだ……」
航志朗の足元には茫漠とした地面がただ冷たく広がっていた。
「ありがとう、星野くん。安寿は元気にしていますよ」
何かを蒼は口に出そうとしたが、アンヌが蒼の腕に手を回して、蒼の頬にキスして言った。
「そんなに怖い顔しないで、アオイ」
親しげに蒼はアンヌの腰に手を回して引き寄せると、アンヌの頬にキスしてからフランス語で言った。
「アンヌ、俺が怖い顔をしているように見える?」
「うん」とアンヌは可愛らしくうなずいて蒼を見上げた。蒼は微笑んでアンヌの唇に軽くキスした。
一瞬、顔をしかめて航志朗は思った。
(このふたり、……付き合っているのか?)
ノアとロマンをふと見ると、ふたりは微笑み返してきた。
メイドがティーセットをワゴンにのせて運んで来た。五人はソファに座った。航志朗はノアの隣に、アンヌの両脇には蒼とロマンが座った。しばらくベルガモットの香りを楽しんでから、待ちきれない様子でノアが航志朗に催促した。
「コーシ。さっそくですが、ムッシュ・キシの作品をお披露目いただけないでしょうか?」
うなずいた航志朗は蒼の冷ややかな視線を感じた。
アタッシェケースを解錠して白手袋をはめた航志朗は安寿の絵を取り出してノアに渡した。一瞬でノアは表情を変えて叫んだ。
「素晴らしい……。なんて美しいんだ!」
「ノア、僕にも見せて見せて!」
ソファから立ち上がったロマンはノアの隣に腰掛けて絵をのぞき込んだ。ロマンはぽかんと口を開けて固まった。
微笑みながらアンヌが言った。
「ねえノア、私にも見せて。彼女の絵を」
ノアは立ち上がってアンヌに絵を手渡した。アンヌは絵のなかの安寿と目を合わせて微笑みを浮かべた。
「彼女が、アンジュ。……アオイの初恋のひと」
その言葉に心底驚いた航志朗が蒼を見た。蒼はアンヌの腰に腕を回しながら絵の中の安寿と再会した。
「そう。ずっと俺が心から愛しているひとだよ、アンヌ」
ノアもロマンも航志朗に向かって笑いかけてきた。その異様な雰囲気を感じた航志朗に嫌な予感が襲ってきた。
次の日は月曜日だった。帰り際に蒼から明日の早朝にリュクサンブール公園で待っていると言われた。気が進まなかったが、早起きして航志朗はホテル近くのカフェで軽く朝食をとってから公園に向かった。
公園には老若男女を問わずにジョギングをする健康的な人びとが大勢いた。欧米の大きな公園ではよく見かける朝の光景だ。すぐに航志朗は蒼に気づいた。蒼は一人きりで池のほとりのベンチに腰掛けてスマートフォンを繰っていた。
「星野くん、何か俺に話でも?」
航志朗が蒼の前に立って話しかけると、冷たい微笑みを浮かべた蒼がスマートフォンの画面を見せながら言った。
「高校の時の安寿の写真をごらんになられますか? あなたが知らない彼女を」
一瞬、蒼のスマートフォンを航志朗は見た。グレーの制服を着た高校生の安寿が陽が傾きかけた教室のかたすみで楽しそうに笑っていた。
「いや、けっこうだ。それよりも手短に話をお願いできるかな。これから仕事なんだ」
「では、率直に申しあげましょうか」
そう言うと蒼はベンチから立ち上がった。
「岸さん。あなたは安寿を冒涜している」
急に激しい怒りがこみ上げてきたが、冷静さを保って航志朗は低い声で静かに蒼に言った。
「『冒涜』? 星野くん、君は俺と安寿の何を知っているんだ? 何も知らないだろ」
「すべて知っていますよ。あなたと安寿は、兄妹なんでしょう?」
いきなり胸を突かれた航志朗は何も答えられなかった。どうしても「それは違う」とは言えない。
「安寿がかわいそうだ。彼女は高校生の時にあなたのことが好きだと言っていた。そして、自立したら離婚する契約になっていると。……そうですよね、岸さん?」
航志朗は複雑な表情を浮かべた。歓喜とも悲哀ともいえない感情が航志朗の頭のなかを駆けめぐる。
蒼は明らかに航志朗を見下した態度で続けて言った。
「そして、あなたは安寿をご自分の思うがままにもてあそんでいるんですよね? 彼女の純粋な好意をあなたの都合のいいように利用して」
「は? 何を言っているんだ。君は何も知らないくせに!」
思わず航志朗は声を荒げた。
「知っていますよ。俺は見たんですから。ニースのアンヌの実家であの絵を。あなたの父親が描いたあの官能的な安寿の母親の絵をね」
航志朗は険しい目つきをして言った。
「君は俺に何が言いたいんだ?」
「安寿と早く別れてください。あとは俺が引き受けますから」
蒼はまっすぐに航志朗の琥珀色の瞳を見すえた。航志朗も蒼に強いまなざしで見返した。
二人の男は相対して言い争った。
「そんなことできるわけがないだろ。俺たちは心から愛し合っている。君だってアンヌと愛し合っているんじゃないのか」
「いいえ。俺が愛しているのは安寿だけです。アンヌは全部知っていますよ。彼女からは『それでもいいから、私を抱いてほしい』と言われました」
「じゃあ、君は心のなかで安寿を想いながら、愛してもいないアンヌを抱いているということか。君こそアンヌを冒涜しているんじゃないのか」
「それは違いますね、岸さん。俺はアンヌにうそをついていませんから、冒涜にはならない。でも、あなたは安寿にうそをついている。そうですね?」
「俺は安寿にうそをついていない。父と安寿の母親の関係をまだ彼女に話していないだけだ!」
ついに航志朗は怒鳴り声をあげた。
「それがうそをついていると言うんですよ。そんなこともわからないんですか? 笑えますね、無能すぎて」と言い放った蒼だが、蒼は笑っていない。思い詰めた真剣な表情だった。
「岸さん、とにかく安寿と別れてください。彼女のために。それでは失礼します。俺は授業がありますので」
背を向けて蒼は航志朗の前から去って行った。うなだれた航志朗はこぶしをきつく握りしめてつぶやいた。
「俺は安寿を愛しているんだ。愛しているからこそ、本当のことを伝えられないんだ……」
航志朗の足元には茫漠とした地面がただ冷たく広がっていた。