今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第5節
その年の春、もうひとつの別れが安寿を待っていた。
安寿は都心のホテルのラウンジに向かった。念のため安寿はいつもよりもセミフォーマルな服装を選んだ。安寿はダークネイビーの上品なサマーウールのワンピースを着ている。最近華鶴に仕立ててもらった服だ。服だけではない。二十歳を過ぎたのだからと、華鶴は黒い麻のレースの日傘まで買ってくれた。ストラップパンプスが柔らかなカーペットに沈み込むのを感じながら待ち合わせたラウンジに入る。名前をスタッフに言うと奥の席に案内された。
「安寿ちゃん、久しぶり!」
渡辺優仁が立ち上がって笑いながら片手を上げた。突然、おとといの夜に渡辺から「今、東京に来ているから会おう」と連絡があったのだ。
安寿は渡辺に会釈して言った。
「優仁さん、お久しぶりです。恵ちゃんと敬仁くんたちは元気ですか?」
うなずいた渡辺はにっこり笑うと安寿に革製のメニューブックを差し出しながら目を細めて言った。
「また一段ときれいになったんじゃないの、安寿ちゃん。離れて暮らす航志朗くんはさぞや心配だろうね。彼の心中をお察しするよ」
頬を紅潮させて安寿は肩をすくめた。
しばらくの間、安寿と渡辺は完璧に整った形状のイチゴが添えられたホテルメイドの狐色のパンケーキを一緒に楽しんだ。パンケーキの表面には焦げ目が美しく描かれていて、思わず安寿は見入ってしまった。
二杯目のコーヒーを軽く啜ってから渡辺は切り出した。
「安寿ちゃん、君に伝えたいことがあるんだ」
「はい。なんでしょう、優仁さん」
安寿には急に渡辺に呼び出された理由がまったくわからなかった。渡辺は両腕の肘をテーブルについて顎の下で手を握って言った。
「僕たち、ドイツに行くことになったんだ」
「ドイツですか!」
目を大きく見開いて安寿は大声をあげた。周りの客たちの視線を感じて、すぐに安寿はティーカップに目を落とした。
「うん。ベルリンの大学の客員研究員に招かれたんだ」
渡辺はそのいきさつを安寿に説明した。出版社で編集長をしていた頃から渡辺はベルリンの大学から客員研究員の招聘を受けていた。海外の大学で研究に従事することは、渡辺の胸に秘めた長年の夢でもあった。だが、恵や北海道にいる両親のこともあってなかなか踏ん切りがつかなかった。
もともと渡辺は父が設立した農業法人を継ぐつもりはなかった。突然の父の逝去後、それまで父がワンマンで農業法人を経営していたために、後に残された母とスタッフたちだけでは経営が立ち行かなくなると渡辺は考えた。そこで父をこれまで支えてくれたスタッフたちのために、一時的に北海道に渡る決断をした。農作業がひと段落した昨年末の決算で、もうスタッフたちだけで農業法人をやっていけると渡辺は判断したということだった。
「そう、若い土師くんたちに譲ることにしたんだ。曾祖父が開墾したあの土地を」
「恵ちゃんは、なんて言っているんですか?」
「もちろん賛成してくれているよ。ドイツでの新しい生活に胸を弾ませている。日本に残していくことになる君のことだけがものすごく心配だと言っているけれどね」
あわてて安寿は渡辺に言った。
「優仁さん、私は大丈夫です! もう大人になりましたから」
「うん、わかっている。でも恵にとっては、安寿ちゃんはまだ小さい姪っ子のままなんだよ」
安寿はうつむいた。また大切なひとたちが遠くに旅立ってしまう。無理やり笑顔を作って安寿はまた尋ねた。
「希世子さんはどうされるんですか?」
「母も一緒に行く。彼女はドイツ語の日常会話ができるから、恵は心強いだろう」
「今度、敬仁くんに会ったら、ドイツ語で話しかけられるのかもしれないですね」
どうしても寂しく感じてしまう心を隠して安寿は微笑んだ。
渡辺はこれから勤めていた出版社にあいさつに行くと言って、安寿と渡辺はホテルの前で別れた。安寿は離れて行く渡辺の後ろ姿の隣に、敬仁と手をつないだ恵の姿を見ていた。恵は振り返って微笑みながら安寿に手を振った。恵の幻に安寿も小さく手を振った。
「元気でね、恵ちゃん。今まで本当にありがとう……」
安寿は都心のホテルのラウンジに向かった。念のため安寿はいつもよりもセミフォーマルな服装を選んだ。安寿はダークネイビーの上品なサマーウールのワンピースを着ている。最近華鶴に仕立ててもらった服だ。服だけではない。二十歳を過ぎたのだからと、華鶴は黒い麻のレースの日傘まで買ってくれた。ストラップパンプスが柔らかなカーペットに沈み込むのを感じながら待ち合わせたラウンジに入る。名前をスタッフに言うと奥の席に案内された。
「安寿ちゃん、久しぶり!」
渡辺優仁が立ち上がって笑いながら片手を上げた。突然、おとといの夜に渡辺から「今、東京に来ているから会おう」と連絡があったのだ。
安寿は渡辺に会釈して言った。
「優仁さん、お久しぶりです。恵ちゃんと敬仁くんたちは元気ですか?」
うなずいた渡辺はにっこり笑うと安寿に革製のメニューブックを差し出しながら目を細めて言った。
「また一段ときれいになったんじゃないの、安寿ちゃん。離れて暮らす航志朗くんはさぞや心配だろうね。彼の心中をお察しするよ」
頬を紅潮させて安寿は肩をすくめた。
しばらくの間、安寿と渡辺は完璧に整った形状のイチゴが添えられたホテルメイドの狐色のパンケーキを一緒に楽しんだ。パンケーキの表面には焦げ目が美しく描かれていて、思わず安寿は見入ってしまった。
二杯目のコーヒーを軽く啜ってから渡辺は切り出した。
「安寿ちゃん、君に伝えたいことがあるんだ」
「はい。なんでしょう、優仁さん」
安寿には急に渡辺に呼び出された理由がまったくわからなかった。渡辺は両腕の肘をテーブルについて顎の下で手を握って言った。
「僕たち、ドイツに行くことになったんだ」
「ドイツですか!」
目を大きく見開いて安寿は大声をあげた。周りの客たちの視線を感じて、すぐに安寿はティーカップに目を落とした。
「うん。ベルリンの大学の客員研究員に招かれたんだ」
渡辺はそのいきさつを安寿に説明した。出版社で編集長をしていた頃から渡辺はベルリンの大学から客員研究員の招聘を受けていた。海外の大学で研究に従事することは、渡辺の胸に秘めた長年の夢でもあった。だが、恵や北海道にいる両親のこともあってなかなか踏ん切りがつかなかった。
もともと渡辺は父が設立した農業法人を継ぐつもりはなかった。突然の父の逝去後、それまで父がワンマンで農業法人を経営していたために、後に残された母とスタッフたちだけでは経営が立ち行かなくなると渡辺は考えた。そこで父をこれまで支えてくれたスタッフたちのために、一時的に北海道に渡る決断をした。農作業がひと段落した昨年末の決算で、もうスタッフたちだけで農業法人をやっていけると渡辺は判断したということだった。
「そう、若い土師くんたちに譲ることにしたんだ。曾祖父が開墾したあの土地を」
「恵ちゃんは、なんて言っているんですか?」
「もちろん賛成してくれているよ。ドイツでの新しい生活に胸を弾ませている。日本に残していくことになる君のことだけがものすごく心配だと言っているけれどね」
あわてて安寿は渡辺に言った。
「優仁さん、私は大丈夫です! もう大人になりましたから」
「うん、わかっている。でも恵にとっては、安寿ちゃんはまだ小さい姪っ子のままなんだよ」
安寿はうつむいた。また大切なひとたちが遠くに旅立ってしまう。無理やり笑顔を作って安寿はまた尋ねた。
「希世子さんはどうされるんですか?」
「母も一緒に行く。彼女はドイツ語の日常会話ができるから、恵は心強いだろう」
「今度、敬仁くんに会ったら、ドイツ語で話しかけられるのかもしれないですね」
どうしても寂しく感じてしまう心を隠して安寿は微笑んだ。
渡辺はこれから勤めていた出版社にあいさつに行くと言って、安寿と渡辺はホテルの前で別れた。安寿は離れて行く渡辺の後ろ姿の隣に、敬仁と手をつないだ恵の姿を見ていた。恵は振り返って微笑みながら安寿に手を振った。恵の幻に安寿も小さく手を振った。
「元気でね、恵ちゃん。今まで本当にありがとう……」