今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 プレートからこぼれ落ちそうな量の鶏のから揚げを航志朗はすっかり平らげた。中高生のような勢いでから揚げを口に運ぶ航志朗を見て、安寿は心の底から可笑しくなっていた。

 (航志朗さんって、とても可愛らしい、……大きな男の子)

 夕食後にバースデーケーキを安寿にまた食べさせてもらった航志朗はソファに安寿を連れて行き、安寿の身体に腕を回して抱きしめた。しばらく見つめ合ったふたりはどちらからともなく唇を重ねた。何度も何度も音を立ててキスすると、目を合わせて微笑み合った。

 突然、航志朗のスマートフォンのアラームが鳴り出して、ふたりは振り返った。九時五分前だ。面倒くさそうに頭をかいてから、航志朗は安寿から身を離して言った。

 「安寿、ごめん。ちょっと待ってて。仕事を片づけてくる」

 微笑みながら安寿はうなずいた。

 スマートフォンとノートパソコンを操作して、航志朗はパリのミーティングルームにアクセスした。すぐに騒然とした音声が耳に入ってきた。航志朗のためにデカフェを淹れようと安寿は立ち上がった。その時、いきなり航志朗が流暢にフランス語を話し出した。安寿は目を見張ってノートパソコンに向かった航志朗を見つめた。英語を話している姿は何回も見ているが、フランス語での会話は初めてだ。身体じゅうがとろけてしまいそうなくらいに甘い航志朗の鼻母音が聞こえてくる。

 安寿は頬を赤らめて思った。

 (航志朗さんはフランス語も堪能なんだ。彼ってとても素敵な、……大人の男性)

 小一時間が経った。ノートパソコンの画面を見ながら、まだ航志朗はパリの美術館の学芸員たちと会議中だ。二年間も大学でフランス語を履修していたが、会議の内容はさっぱりわからない。ソファに座った安寿はカモミールティーを飲みながら、ずっと航志朗の姿を眺めていた。

 思いがけず航志朗が振り返って安寿に笑いかけると手招きした。安寿は立ち上がって首をかしげた。

 (……コーヒーのおかわりかな?)

 そろそろと安寿が航志朗に近づくと、突然、航志朗は安寿を膝の上に抱き上げてノートパソコンの画面を指さした。画面の向こう側にいる学芸員たちがいっせいに自分を興味深く見ていることに気づいて、安寿は真っ赤になった。

 航志朗は安寿の耳元でささやいた。

 「皆、君の顔が見たいって言っている。ほら安寿、あいさつしろよ。大学でフランス語を習っているんだろ?」

 (いきなりそんなこと言われても!)と安寿は抗議したくなったが、すでに画面には自分の顔が映っている。安寿はあわてて笑顔を作って恐る恐るあいさつした。

 「こんばんは(ボンソワール)……」
 
 隣で航志朗がぷっと吹き出して言った。

 「向こうは午後三時だよ、安寿」

 安寿の胸の鼓動が早まった。

 (そうだった……。私ったら航志朗さんに恥かかせちゃった。彼のためにしっかりしなくちゃ!)

 果敢に安寿は微笑んで手を振りながら言った。

 「ええと、こんにちは(ボンジュール)!」

 いきなり学芸員たちが騒然として何かを口ぐちに言った。その学芸員たちに向かって航志朗が早口で何か言っている。安寿はさらに胸がどきどきしてきた。

 (私、また間違えちゃったのかな、どうしよう……。というより、私、パジャマのままだった!)

 航志朗が困ったような表情で安寿に言った。

 「安寿。皆、君が俺の妻に見えないって言っている」

 「えっ? どういうことですか」

 「君が高校生(リセエンヌ)どころか、それ以下に見えるって」

 (私が子どもっぽいってことね。航志朗さんとは不釣り合いの……)

 押し黙った安寿はうつむいたが、航志朗は安寿の顎を持ち上げてにやっと笑った。

 「だから君が俺の愛する妻だって証明してみせろって……」と言いかけると、航志朗は安寿を抱き寄せて唇を押しつけた。派手に音を立てて吸いつかれる。耳たぶまで安寿は真っ赤になった。

 (もうっ、皆さんの目の前でなんてことをするの!)

 安寿は航志朗の腕の中で身をよじった。

 突然、大音量でノートパソコンの向こう側がわいた。思わず航志朗と唇を重ねながら安寿は横目で画面を見た。学芸員たちは目を細めながら楽しそうに手をたたいている。口笛を高く鳴らす男もいる。航志朗は画面に向かって手を上げると、いきなりインターネットの接続を切断した。そして、そのまま安寿を抱き上げて航志朗は二階に安寿を連れて行った。

 「こ、航志朗さん……」

 ベッドに安寿を降ろすと、航志朗は安寿に覆いかぶさって言った。

 「待たせたな、安寿。あれだけ昼間に眠っていたんだ、今夜は君を寝かさない」

 安寿は甘いため息をついてから航志朗の身体に手を回した。すぐに全部脱がされて身体じゅうに口づけられる。安寿は航志朗の激しく揺れる琥珀色の瞳の奥に何か心を荒だてるものの存在を見た。航志朗がなりふり構わず自分にしがみついてくるように感じる。身体の奥がとろけながらも、安寿は正体がわからない不安におちいった。背中に汗のしずくを浮かべながら何度も航志朗は自分を求めてくる。苦しそうに何回も名前を呼んでくる。心が騒めいた安寿は航志朗の頬に手を触れて問いかけた。

 「航志朗さん?」

 「安寿……」

 「はい」

 「ずっと俺と一緒にいるよな?」

 その問いに安寿は答えられなかった。涙が心の奥底から染み出てきて、それを隠すように安寿は航志朗にしがみついた。ベッドがきしんだ音を立てて安寿の身も心も激しく揺れる。身体を突き上げてくる快感がこの世の哀しみのすべてを押し流してくれるような気がするが、やはりそれはまたたく間に過ぎ去ってしまう。そのまま安寿と航志朗はまたきつく抱き合った。息が苦しくなるほどに安寿は胸が痛くて仕方がない。心から愛するひとと肌を触れ合っているというのに、ものすごく虚しい気持ちになる。

 (わかってる。先がない関係だから、こんな気持ちになるんだ……)

 そう思ってしまった自分を意識して安寿は目をきつく閉じた。

 (私、もう航志朗さんとこれをしたくない。……ただつらいだけだから)

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