今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
航志朗は羞恥心で身体を硬直させた安寿をそっと助手席に降ろしてから車に乗り込んだ。あわただしく航志朗は車のエンジンをかけた。
「君の叔母さんは、今どこにいるんだ?」
「……自宅です」
航志朗はカーナビゲーションの目的地の履歴から安寿が叔母と暮らしている団地の住所を選択して車を発車させた。
「首都高に乗れば、今から四十分以内には到着する。その前に、いちおう叔母さんに連絡しておいた方がいい」
「でも、岸さん。私、携帯を忘れてしまって」
「じゃあ、これを使え」と言って、航志朗は自分のスマートフォンを安寿に手渡した。安寿は礼を言ってから、慣れないスマートフォンに手こずりながら電話をかけると、すぐに恵が応答した。
『もしもし……』
発信元が不明で恵は不審そうだ。
「恵ちゃん? 私よ。実は、黒川画廊の近くで転んで捻挫しちゃったの。今、岸先生の息子さんの車で家に送ってもらっているの。五時までには帰れるから、家で待っててね」
『えっ? 安寿、どういうことなの』
恵は嫌な予感がして、ざわざわと不安な気持ちになった。
「帰ったら説明するね。本当に私は大丈夫だから心配しないで、恵ちゃん」
そう言うと安寿は通話を終了した。航志朗は安寿の青ざめた横顔を見てから、その膝の上に目を落とした。安寿は両手で航志朗のスマートフォンをきつく握りしめている。
車は首都高を走った。航志朗が先程からずっとうつむいたままの安寿に言った。
「安寿、さっきの残りのドーナツを俺に食べさせてくれないか。これから頭使うんだ、糖分補給しておかないとな。君も食べたらいい」
(えっ? また食べさせるの……)
安寿は航志朗をまじまじと見つめた。こんなにも切羽詰まった状況だというのに、航志朗は余裕で笑っている。仕方なく安寿はピンク色のアイシングがされたドーナツをひと口大にちぎって航志朗の口に運んでから、自分の口にも入れた。場違いなイチゴの香りがする人工的な甘さが安寿の心と身体を少しだけゆるませてくれた。
赤信号で停止すると、横目で安寿を見ながら航志郎が言った。
「それから、安寿。夫の俺のことを『岸さん』じゃ都合が悪いだろ。これからは名前で呼べよ」
(おっ、おっ、……夫!)
安寿は結婚する自覚がまったくない。思わず狼狽して次の言葉が出てこない。
航志朗は深いため息をついた。
「もしかして、俺の名前を覚えていないのか? ……航志朗だ」
「は、はい。こ、……航志朗さん」と、か細い声で言って安寿は顔を赤らめた。
すると、航志朗はひとしきり満足そうに笑った。
つくづく安寿は思った。
(こんな状況でどうしてそんなに嬉しそうに笑うの? ほんと、わけがわからない)
カーナビゲーションがはじき出した時間通りの午後四時四十分に、ふたりを乗せた車は安寿が住む団地に到着した。だが、車を駐車しても、安寿は膝の上で両手を固く握ったまま動こうとしない。ネクタイを締め直しながら、航志朗は安寿を穏やかに見つめた。
(恵ちゃんに、なんて言ったらいいんだろう)と安寿は思った。だんだん胸の鼓動が早くなってきて全身がこわばった。そんな安寿に航志朗が力強く言った。
「大丈夫だ、安寿。俺がフォローする」
安寿は航志朗の目を見てしっかりとうなずいた。
「君の叔母さんは、今どこにいるんだ?」
「……自宅です」
航志朗はカーナビゲーションの目的地の履歴から安寿が叔母と暮らしている団地の住所を選択して車を発車させた。
「首都高に乗れば、今から四十分以内には到着する。その前に、いちおう叔母さんに連絡しておいた方がいい」
「でも、岸さん。私、携帯を忘れてしまって」
「じゃあ、これを使え」と言って、航志朗は自分のスマートフォンを安寿に手渡した。安寿は礼を言ってから、慣れないスマートフォンに手こずりながら電話をかけると、すぐに恵が応答した。
『もしもし……』
発信元が不明で恵は不審そうだ。
「恵ちゃん? 私よ。実は、黒川画廊の近くで転んで捻挫しちゃったの。今、岸先生の息子さんの車で家に送ってもらっているの。五時までには帰れるから、家で待っててね」
『えっ? 安寿、どういうことなの』
恵は嫌な予感がして、ざわざわと不安な気持ちになった。
「帰ったら説明するね。本当に私は大丈夫だから心配しないで、恵ちゃん」
そう言うと安寿は通話を終了した。航志朗は安寿の青ざめた横顔を見てから、その膝の上に目を落とした。安寿は両手で航志朗のスマートフォンをきつく握りしめている。
車は首都高を走った。航志朗が先程からずっとうつむいたままの安寿に言った。
「安寿、さっきの残りのドーナツを俺に食べさせてくれないか。これから頭使うんだ、糖分補給しておかないとな。君も食べたらいい」
(えっ? また食べさせるの……)
安寿は航志朗をまじまじと見つめた。こんなにも切羽詰まった状況だというのに、航志朗は余裕で笑っている。仕方なく安寿はピンク色のアイシングがされたドーナツをひと口大にちぎって航志朗の口に運んでから、自分の口にも入れた。場違いなイチゴの香りがする人工的な甘さが安寿の心と身体を少しだけゆるませてくれた。
赤信号で停止すると、横目で安寿を見ながら航志郎が言った。
「それから、安寿。夫の俺のことを『岸さん』じゃ都合が悪いだろ。これからは名前で呼べよ」
(おっ、おっ、……夫!)
安寿は結婚する自覚がまったくない。思わず狼狽して次の言葉が出てこない。
航志朗は深いため息をついた。
「もしかして、俺の名前を覚えていないのか? ……航志朗だ」
「は、はい。こ、……航志朗さん」と、か細い声で言って安寿は顔を赤らめた。
すると、航志朗はひとしきり満足そうに笑った。
つくづく安寿は思った。
(こんな状況でどうしてそんなに嬉しそうに笑うの? ほんと、わけがわからない)
カーナビゲーションがはじき出した時間通りの午後四時四十分に、ふたりを乗せた車は安寿が住む団地に到着した。だが、車を駐車しても、安寿は膝の上で両手を固く握ったまま動こうとしない。ネクタイを締め直しながら、航志朗は安寿を穏やかに見つめた。
(恵ちゃんに、なんて言ったらいいんだろう)と安寿は思った。だんだん胸の鼓動が早くなってきて全身がこわばった。そんな安寿に航志朗が力強く言った。
「大丈夫だ、安寿。俺がフォローする」
安寿は航志朗の目を見てしっかりとうなずいた。